「分別八十八」原香
通りに座りこんでいたら、行商人に声をかけられた。古くて大きな木箱を背負っている。体は薄く、髪は多いが縮れており、顔がよく見えない。
「これから向こうの屋敷へ商売しに行くんだが、手伝いがほしいんだ。君はここの人じゃないね?」
旅をしている、と答えると、「そうか」と行商人は言った。それから「分け前をやるから来ないか」と言われ、ついて行くことにした。
なぜ旅をしているのか、どこから来たのかなどを話しているうちに、行商人とは次第に打ち解けていった。
「旅の人ということは、まだこの辺のことには詳しくないだろう」
頷いたら、「面白い話がある」と言って、ある話を語りだした。
「この村には八十八という名前の男が、五人住んでいた。五人の八十八を、ここの人らは特に言い分けずに呼んでいたが、これが紛らわしくて、毎度辟易していた。そこにある日、六人目の八十八が町に住むようになった。こうなれば、あだ名をつけねば不便だということで、村の人たちは六人にあだ名をつけることにした。
「一人は気が荒いから外道八十八。一人は博打が好きなので博打八十八。一人は百姓だから百姓八十八。一人は呉服の商いを始めたから呉服屋八十八。また一人は盗みをするので盗人八十八。そして最後の一人は知恵があるので分別八十八といった。
「ある日、博打八十八にもとに、外道八十八が金を取り返しにきた。しかし博打八十八は返す金がなく、二人は喧嘩になった。外道八十八が殴る蹴るをした末に、とうとう博打八十八は死んでしまった。別に殺す気はなかったので、外道八十八は慌てて分別八十八のところへ行った。知恵者の分別八十八に、うまい始末を教えてもらおう、というわけだ。
「分別八十八は言った。『それなら、死体を百姓八十八の田んぼの畦に、そっとしゃがませておいてみろ』。
「その晩、百姓八十八は自分の田んぼの周りを歩いていた。水回りを確認しようと畦に入ると、誰かが足元にしゃがみ込んでいる。さては、また水を盗みに来たな。そう思って、思いっきり下駄で殴ったら、勢いよくごろんと倒れてしまった。博打八十八の死体だ。まさかこんなことになるとは! 百姓八十八はどうすればいいかわからなくなり、慌てて分別八十八のところへ行った。
「分別八十八は言った。『それなら、呉服屋八十八の蔵へ行き、死体を木箱に入れて、蔵の手前に置いてみろ』。
「真夜中。盗人八十八は夜道を一人で歩いていた。そして、呉服屋八十八の蔵の前で立ち止まった。いつもは閉まっている蔵の戸は、その夜はなぜだか開いていた。しめた、と思って、盗人八十八は手前の箱を盗んだ。走って走って、誰もいないのを確認し、箱を開けてみると、そこには博打八十八の死体があった。腰を抜かしてしまった盗人八十八は、恐ろしくなり、ぶるぶると震えながら、分別八十八のところへ慌てて行ったのさ。
「分別八十八は言った。『それなら、死体を持って博打八十八の家の戸を叩き、女房に『今戻ったぞ』と言ってみろ。女房は怒って戸を開けないだろうから、そしたら死体を井戸の中へ捨ててしまえばいい』。
「盗人八十八は博打八十八の死体を抱え、博打八十八の家まで走った。戸をドンドンと叩き、声を変えて『帰ってきたぞ、開けてくれ』と言う。すると、中から女房の血のたぎった声で、『帰ったも何もないもんだ!』と叫び声がした。『あんたみたいな男は、井戸にでも落ちて死んじまいなっ!』そう言われて、盗人八十八はその通り、死体を井戸に投げ入れた。そして真っ青な顔をして、逃げ帰っていった。
「明け方。しばらくしても、何も返事が返ってこない女房は、戸を開けて外へ出てみた。恐る恐る井戸の中を覗いてみると、その深い闇の奥で、何かがプカプカ浮いているのが見えた。あたりはまだ薄暗いが、それが亭主だとはっきり分かった途端、女房はギャーっと叫んで、町のみんなを起こし始めた。そして男たちに、井戸から亭主を引っぱり上げさせた。上げられた博打八十八の死体を見て、女房はおいおい泣いたんだと。
「それから分別八十八は、死体を隠した者どもから、たんまりと謝礼金を受け取った。分別八十八は、知恵を売って一晩で大金持ちとなったわけだ。
「これは昔話でなく、つい最近、この村で起こったことさ。どうだ、面白いと思わないかい?」
屋敷に着いた。奉公人に案内され、長い廊下を渡り、奥の部屋へと通される。部屋には年老いた男が一人、上等な着物を着崩して座っていた。
「よく来た、呉服屋八十八。今日は何を持ってきた」
男はそう言って、こちらを一瞥した。
「小間使いまで連れて、商売繫盛か」
行商人は、隣に木箱を静かに置いた。それから、人懐っこい笑みを男に向けて言った。
「へえ、旦那もこの頃、ずいぶんと羽振りが良くなりやして。おかげでうちは商売上がったりでさ」
「ふん。良いものには金に糸目を付けぬ。わしは、この頃、でなく、昔からそうだった」
「へへ、こいつぁすいやせん。しかし、やっぱ旦那みてえに銭をたぐり寄せる知恵もんでねえと、金に糸目を付けねえで物を買う、なんてできやせんぜ。あっしら貧乏人にゃ到底無理でさあ」
「なに、頭の足らんやつに知恵を貸してやっているだけだ。知恵は金になる。お前も金が欲しいなら、知恵をつけるといい」
「あっしは着物を売るしか能がねえんで」
そう行商人が言うと、男は呆れたように鼻を鳴らした。
「それで、今日は何を持ってきた」
「へえ、今日は旦那のために、とっておきのもんを持ってまいりやした」
行商人は、さっそく木箱の紐をほどき、蓋を開けた。中から羽織を取り出す。白銀の羽織だ。動物の毛皮を使っているらしかった。彼はそれをそっと広げて顔の前まで持ち上げた。羽織に見とれていると、彼は向こうにわからないように、かすかにこちらを向いて微笑んでみせた。
「おお、それは何だ」
彼は男に顔を向け、言った。
「へえ、こいつは北国お魯西亜のさらに北、北斗七星の向かいにあると云われる国、カレドニアから渡ってきたという、海獣の毛皮の羽織でごぜえやす」
男は眉をひそめた。
「なに、かる、かるれ……」
「カレドニアで。旦那」
「かるで……ふん、しかしそんな毛皮の羽織、前にもお前はよく持ってきていただろう。そんなに勿体ぶって、いったいあれらと何が違うというのだ」
「へえ旦那。こいつぁですねぇ、こいつを羽織れば、どんな姿にでも変身できるんで。くるっと羽織れば、あら不思議。理想の男になれまっせ」
「なに、変身できる羽織だと? なんだそれは。インチキか」
「インチキだなんて旦那、とんでもねえ。とんでもねえけど、いやまてよ……」
と言って、行商人は男をまじまじと見ながら首を傾げた。男は怪訝そうに言う。
「なんだ、言ってみろ」
「いやあね、旦那みてえに頭がよくて、賢くて知恵もんの男にもなれば、理想の男になりてえなんて、考えもしねえかなと思いやして」
「なんだいきなり」
「いやあ、旦那みてえな男は、さぞかし女に困ることもないんでしょうなあ。それだったら、村中の、いや、お国中の女が放っておかねえほどの色男になるなんて、もちろん興味もねえんでさあ。いやあ、清廉潔白! うらやましい!」
「おい待て、呉服屋八百八。それを羽織れば、女が放っておかないほどの好色に変身するのか」
「へえ、そうでございやすが」
男の瞳に一瞬、真剣なものが映った。しかし、すぐに眉を寄せ、何か卑しいものを見るような目つきで羽織を眺めた。そして吐き捨てるように言った。
「ふん。わしはそもそも女なんぞに興味はない。それに、わしが女にうつつを抜かすような頭の軽い男に見えるか。馬鹿馬鹿しい」
行商人は残念そうに言った。
「ああ、そんなら、この羽織は旦那向けではなかったな。もったいねえが、しまうとするか」
「おい待て」
と男が言った。
「わしは確かに、お前の言う理想の男なんぞに興味はない。だが、その羽織が本当に人間を変身させられるのかには興味がある。呉服屋八百八、お前、噓をついてはおらんだろうな」
行商人は急に立ち上がった。羽織をパッとひるがえす。白銀の毛皮が、ガラスのように眩しく光った。
「旦那、うそじゃあ、ございやせん。あっしが一度、変身してみやしょうか」
「できるのか」
「まあ見ててくだせえ」
彼はそう言って、こちらを向いた。置いた木箱から、小さな瓢箪を取り出す。そしてこちらにそれを渡し、小声でこう囁いた。
「いいか、僕が合図をしたら、この水を僕にかけるんだ。頼んだよ」
そう言って、彼は白銀の毛皮を羽織った。
次の瞬間、毛皮はまるで海のように光り波打ちだした。と同時に、眩い光が白銀の毛の合間から溢れ出し、部屋は途端に真っ白い光に包まれた。目がくらみ、何も見えない。そこに、どこからともなく冷たい潮風が吹きこんできた。ハッとして目を凝らすと、目の前には、見たこともない青年が立っていた。長い銀髪が風に揺れている。彼にはどこか人間味が感じられなかった。まるで、光る羽織とともにどこかへ羽ばたいていきそうに思われた。足元は特に眩しくて直視できない。ガラスの破片で覆われているかのようだ。
彼はゆっくりと男に近づいていった。男は驚きおののいて、後ろへ後退りした。しかし、彼が手を伸ばし、男の頬を静かに撫でると、男は見開いた目をゆっくりと閉じた。そして今度はまたゆっくりと開き、二、三度またたかせた。男の頬は、幼い少女のように紅く染まっていた。とそのとき、青年の脚から、何か煌めく小さなものが落ちたのが見えた。何かと思って手を伸ばしたとき、それは青年にサッと拾われた。彼は黄金の瞳をこちらに向けて、軽く頷く。
合図である。握りしめていた瓢箪の水を、彼に振りかけた。
次の瞬間、羽織は彼を隠すようにくるくると回転し、それが止むと、中から現れたのは、あの行商人だった。
「まあ、こんなもんで。気に入っていただけやしたか、旦那」
男は口が開いたまま、動かない。行商人はなぜだか満面の笑みだ。男に羽織がよく見えるようにと、裾をつまみ、軽く揺らしながら言った。
「この羽織は、カレドニアの古い妖術が掛けられてるらしいんで。どうです、旦那。うそなんかじゃあ、なかったでしょう?」
男は羽織に手を伸ばした。
「わしでも、ああなれるのか」
「へえ、もちろんで」
男の手は震えていた。
「羽織ってみてもいいか」
「へえ、もちろんで」
男は羽織を受け取ろうとした。しかし行商人は、その手をサッと引っ込めた。
「銀五十五匁で、旦那。まいどどうも」
男は言った。
「お前も抜け目のないやつだ」
行商人は男の肩に羽織を掛けてやった。
「万が一のことがあったら、その水をかけてくれ」
男は瓢箪を見てそう言った。そして行商人のやってみせたように、羽織をひるがえした。
しかし男は、つまり分別八十八は、彼の望む姿になることはできなかった。彼が羽織をひるがえしたとたん、羽織はふわっと畳に落ちた。どこに行った、とあたりを見回していると、行商人は、めくってみな、と言う。
羽織をめくると、そこには獣の姿があった。全身を灰色の短い毛で覆われた、見たこともない生き物だ。
「アザラシさ」
なんだ? と聞き返すと、カレドニアの海の海獣さ、と言う。
「少し毛並みが悪いな。まあこれでも毛皮は毛皮だ」
そう言って彼は羽織を取り上げ、元のように畳んで木箱に入れた。瓢箪も一緒に入れる。こいつはどうするんだ、と訊ねると、もちろん入れるさ、と言った。海獣を両手で持ち上げる。軽いな、と呟いて、窮屈な木箱の中にそれを入れた。
「さあ、帰ろう」
呉服屋八百八は箱を閉じた。
屋敷を後にして、通りに出る。
「今日は助かったよ。これはその駄賃だ」
彼は銀三匁を渡した。旅代の足しにしてくれ、と言う。
「それとこれ」
彼は、あの光る小さな欠片を取り出した。
「やるよ」
透明な鱗だ。掌の中で、夕陽を反射していた。
「北に住む化け物の皮さ」
と彼は言った。
この後はどうするんだと訊くと、彼は、いつも通りさ、と答えた。背中の木箱をよいしょと背負いなおす。
「呉服屋は服を売って儲けている。あきんどの知恵を使ってね」
あたりは暗くなり始めていた。
「さて、僕はそろそろ次の村へ行くとしよう」
彼は村を出る方の道を前にして言った。
「噂で聞けば、向こうの村には九兵衛が八人いるらしいじゃないか。もう一人増えたら、どうなるだろう。どうだ、面白いと思わないかい?」
そう言って、彼は向こうの道へ進んでいった。自分は宿を探しに、また歩き出した。