「空色の存在証明」花薄

 

 

 

 

 

「人は何時死ぬと思う?」

夕暮れ色に染まった教室で、彼は私にそう問いかけた。

「藪から棒に何ですか。そんなことよりペンを動かしてほしいんですけど」

「せっかちだな。年上の長話に、少しくらい付き合ってくれてもいいじゃないか」

「誕生日二か月しか違わないくせに大袈裟な……だいたいあなたがそれを書き終わらないと私帰れないんですよ。わかってます?」

 

 苛立ちを乗せた指先でプリントを叩くと、彼はわざとらしく肩をすくめる。よく動く口とは裏腹に、彼の持つ水色のボールペンは先ほどから進んでいなかった。

「俺はな、記憶を失った時だと思うんだ」

「その話まだ続くんです? 前回はSNS、その前は自己啓発本。今度は何に影響されたんですか」

「この前やってた深夜バラエティ」

「あなた、またそんな夜更かしして……」

「すごいぞ、途中から霊能力者とか出てきてな、司会者に憑いてた悪魔ヤマタノオロチと全面対決するんだ。決め手はアルゼンチンバックブリーカーだった」

「風邪ひいた時に見る夢みたいな番組だな……」

 むしろその番組がちょっと気になってきた。とりあえず神道なのか仏教なのかキリスト教なのか統一してほしい。

 

「それでその霊能力者が魔王ロキに騙されてピンチに陥った時、空に浮かぶ師匠が『人が死ぬときは人に忘れられた時だ』って言ってたんだけどな」

「なぜだかとても聞き覚えがある台詞ですね」

その霊能力者、トナカイだったりしないだろうか。

「それを聞いてさ、人を忘れることって、自分の中の誰かを殺すことなんだなあって思ったんだよ。」

 

 そうつぶやいた彼に思わず閉口する。それまでの軽口とは違い、その一言には何か、ひどく重苦しい響きが伴っていて。居心地の悪い沈黙に耐え切れず、机に目線が落ちる。

瞬きの間に静まり返った教室の窓越しに、運動部の掛け声と吹奏楽部の演奏がいやに大きく響いていた。

 

「なーんてな! 変な言い方になったけど、その番組に感銘を受けたって話だ!」

 奇妙な静寂を切り裂くような明るい声が耳朶を打つ。顔を上げると、いつもどおりに笑う彼がいた。

「……中二病には遅すぎませんか? もう高校生でしょう」

「失礼だな、これでも真面目に考えてたっていうのに」

「つまり手遅れということでは」

「きみなあ……」

 脱力して机に張り付く彼からは先ほどの妙な気配は消えていて、知らず知らず浅くなっていた息を深く吸い込んだ。

「それより、その進路調査表をとっとと提出してください」

「これなー……本当に書けないんだが」

「進路に悩む気持ちはわかりますが、あなた成績も要領もいいんですからどこへだっていけるでしょう」

酔狂を擬人化したような態度とは裏腹に、彼の成績は驚くほど良い。休み時間には教室のストーブでマシュマロを焼いて教師に怒られているが、授業中はきわめて静かに話を聞いているしテストの成績もトップクラス。これで突飛な行動さえなければ理想の生徒なのに、と教師陣から心底惜しまれていると、担任が以前ホームルームで溢していた。

 

「そうだなあ……きみはどこがいいと思う?」

「あなたねえ……こんな時間まで人を付き合わせておいて最後まで他人だのみですか」

壁にかかった時計は最終下校時刻の三十分前を示していた。そろそろ本当に提出してほしい。

 

「頼むぜ、優等生。このとおりだ」

下手に出て拝んでくる彼にため息をつく。これだから彼はずるいのだ。断らない自分も相当どうしようもない、という事実からは目をそらして、少しばかり思案する。

 彼は頭が良いし、新たな知識を取り入れようとする向上心がある。人を振り回すようでいて、他人のことをよく見ている気遣い上手。任された仕事はきっちりこなす責任感も強い。きっとどこでだって活躍するに違いないが、あえて言うなら。

 

「小児科医とか、どうでしょう」

「……こりゃまた意外な職業が来たな」

「そうですか? 貴方は子供好きですし保育士や教師なんかも考えたんですが、その頭脳を活かすなら医師のほうがいいかと思って」

「そ、うか……」

考えたことなかったな、と呟く彼に、頓珍漢な回答をしてしまったのかと焦りが募る。彼が家に遊びに来た時、弟の相手をしてくれた姿が印象深く、つい言ってしまったが実は子供嫌いとかあっただろうか。

 

「うん、うん……小児科医、いいな。それにする」

「え、」

 

軽やかにプリントで踊るボールペンによって、第一希望の欄が小児科医の文字で埋まるのを呆然と見送り、一拍遅れて理解が追い付く。

「いやいやいや、待ってください。もう少しじっくり考えなくていいんですか? 自分の進路なんですよ」

「第二以降は保育士と教師にしておくな」

「だから! もっと考えて!」

あまりにもあっさりと埋まった記入欄に、なぜか本人よりも頭を抱えている私を見て、彼は今日一番の笑みを浮かべていた。

 

 

「きみは記憶力がいいからな。些細なことも事細かに覚えているだろう」

「貴方といる時間はことさらに強烈ですからね。強烈すぎて忘れようがありません」

「だからきみがいいんだ」

「はあ……? こんなことしなくても覚えていますよ。当たり前でしょう」

「約束だぜ。ちゃんと覚えててくれよ」

「はいはい、覚えてますよ」

職員室前の大きな窓から差し込む西日は眩しくて、彼の表情はよく見えなかった。

 高校一年の頃、そんな約束をしていたことを思い出す。目の前の現実が受け入れがたく、戦慄く唇でどうにか言葉を紡いだ。

 

「あの人が、死んだって……どういう、ことですか」

 

突然の訃報だった。子供をかばっての交通事故。即死だった、らしい。せめて長く苦しまずに逝けたことが不幸中の幸いだったと語る彼の両親は、痛々しいまでに憔悴していた。眠る彼の顔は穏やかで、真白い棺になど入っていなければ、ただ眠っているようにも見えた。

僧のお経が響くなか、ぼんやりと棺を眺めているうちにも粛々と葬儀は進む。

「それでは最後のお別れとなります。皆さん、献花をお願いします」

 

私は、最後まで泣けなかった。

「少し、いいかしら」

「……なんでしょうか」

 出棺が終わり、参列者にお茶が配られると、彼との思い出話がぽつぽつと交わされる。紙カップを持ったまま揺れる水面を見ていると、彼の母親が声をかけてきた。

「うちの子と、仲良くしてくれてたでしょう。……これを渡しておこうと思って」

「これ、は……?」

 細かな模様が描かれた水色のスチール缶。大きさのわりに軽いそれを開くと、中には種類もサイズもバラバラの紙が入っていた。

『201×年9月9日。今日は一日雨。傘を忘れたらしいクラスメイトに折り畳みを貸した。一瞬前まで絶望顔だったのに、春なのに秋晴れみたいな笑顔で感謝された。カバンにビーズでできた水色の兎のストラッブがついている生徒。写真に丸付けたから明日確認。』

『201×年9月10日。昨日傘を貸したらしい生徒が朝イチで傘を返しに来た。律儀。折り畳み方が几帳面で、店売り以来の綺麗さをしている。話してみたら穏やかな物腰のわりに大分おもしろいぞこいつ』

『201×年10月24日。家庭科室が炎上寸前になった』

『202×年9月15日。誕生日プレゼントに欲しがっていたブランドの服を用意したら、喜びすぎて机で肘を強打して悶えていた。喜んでくれるのはうれしいが正直このブランドのデザインはどうかしてると思う。学校はパリコレじゃないんだぞ。選んだのは俺のはずだが、どうしてこんな服が売ってるんだ、俺はどうしてこの服を買ったんだ、そしてどうしてそんな似合うんだ』

『202×年4月20日、みんなでカラオケ。予定確認』

『202×年8月7日。夏祭り、浴衣レンタルする』

 

 彼の字で綴られた出来事はどれもこれも覚えがあることばかりで、日記のような形式から走り書きのメモまでさまざまだった。

「……あの子はね、病気だったの」

「え……」

「他の人より、たくさん忘れてしまう病気でね。知識は身についても、思い出がどんどんこぼれおちてしまうの」

「それは……」

何を言えばいいかわからず紙に目を落とすと、日記形式の紙が目に留まった。びっしりと紙面を埋める文字。起きたこと、思ったことを逃さないよう事細かに書き記すとき、彼はどんな心持だったのだろうか。

 

「そんなだったから、あの子、将来の夢とかが大の苦手で……過去も覚えてられないのに、未来なんて考えられるわけないって、そう言われたこともあるわ。」

「……あの人が?」

記憶の中の彼は、いつも笑顔だった。滅多に怒ることがなくて、誰かのミスにも笑ってフォローしてくれる人。

 

「でもね、ある時初めて小児科医になりたい、って言ってきてね。高校まで育てて、初めてよ」

「な、」

「貴方がね、言ってくれたんでしょう。照れて全然話してくれなかったけど、いつも貴方のことを話す時と同じ顔だったもの、そりゃわかるわよ。あの子は親を舐めすぎよねえ」

 

息子の隠したかったであろう秘密を朗らかに暴露した彼女は、だからね、と前置きして続けた。

 

「あの子を、忘れないでほしいの」

「忘れません!」

 

 不意に出した大声に、彼女が目を見開く。その姿が、揺らいで滲む。目頭が融け落ちるように熱かった。

 

「忘れません、覚えるのは得意なんです。あの人もそれは知ってて、だから、だから……!」

 

 嗚咽でうまく言葉を紡げないことが悔しくて、鈍く光る革靴の爪先を睨む。どうして、どうして、自分は。

 

「いいのよ、いいの。泣いてもいいの。ありがとう、ありがとうねえ」

慟哭する自分を抱きしめて、彼女はゆるやかに背をなでた。零れ落ちる涙が、彼女のジャケットにいくつもシミを作っては消えていく。

 

ああ、ほんとうにずるい人。

 

 

生涯私は、貴方を殺せそうにない。