今年は日本がハワイの真珠湾を攻撃を行ってから81年になります。

今回の日本海軍よもやま話 第20回目はハワイで活躍した日本人スパイについて3回にわたってお話したいと思います。

まずは「私は真珠湾のスパイだった」についてです。

 

毎年この時期になると開戦当時の歴史ドキュメント番組が各局で放送されています。

この真珠湾攻撃は数々の映画やドラマなどでご存じだと思いますが、ハワイで活躍した日本のスパイについては、一部の軍事マニアを除いては知られていません。

 

 

 

日本海軍の真珠湾攻撃は艦上機による海軍特有の猛訓練の成果によって成功裏に終わりました。

ですが作戦実行するまでハワイにおける米国海軍艦船の状況、哨戒機の活動などほとんどわからない状況だったのです。

そこで日本海軍はハワイ攻撃を検討し始めた頃から、ハワイ・ホノルル領事館を通じてパールハーバーの海軍状況を外務省から入手していました。

当時の日本海軍は領事館から直接情報収集は出来ないので、領事館の管轄である外務省経由しか方法が無かったのです。

 

日本海軍が受信した暗号通信電文内容には誤りも多く、正確な情報を得たい目的として、海軍士官を領事館へ送ることになりました。

そこで海軍部内で誰をハワイに派遣するか検討し始めました。

部内では海軍士官はガチガチの人間なので海軍離れした民間人が良いのではという意見もありました。

しかし民間人だと専門的な情報収集や無線操作が出来ません。

そこで海軍経験者で海軍臭くなく、しかも民間人としてハワイ生活に溶け込むものはいないか探したところ一人いたのです。

その名も吉川猛夫(よしかわ たけお)という海軍軍令部第三部第八課の嘱託職員です。

 

 

 

吉川猛夫は愛媛県松山市出身で昭和5年4月、海軍兵学校(61期)に入学。

昭和8年11月、同校を卒業し「浅間」、「由良」乗組を経て、昭和9年10月から翌年3月まで海軍水雷学校で学びました。

ですが持病があり昭和10年1月から6月まで病休したあと、昭和10年7月、海軍少尉に任官後横須賀鎮守府付に発令されました。

昭和11年9月に休職後、昭和13年6月に予備役編入となり、予備役編入と同時に軍令部嘱託となり軍令部第三部第八課に配属されました。

当時の軍令部第三部第八課というのは、ヨーロッパ諸国、特にイギリスの情報を収集分析する担当部署でした。

吉川猛夫は元海軍少尉で艦船情報や無線操作も出来るということで選ばれました。

しかし吉川猛夫の名前のまま領事館に派遣するとアメリカ軍諜報局でも経歴が分かるのでは、というので偽名を使うことにしました。

そこで母方の姓名である「森村」を名乗り森村正(もりむらただし)として昭和16年3月一等書記官としてハワイ・ホノルル領事館へ向かうことになりました。

彼の肩書は一等書記官でも本当の正体は総領事と副領事以外誰も知らさていなかったのです。

 

 

 

赴任した後、真珠湾や空軍基地周辺ではスパイじみた行動を避けていました。

日本人が軍事施設に近寄るとかえって怪しまれ身柄を拘束されるからです。

しかも領事館職員が不審な行動をとっていると警察やアメリカ軍に察知されるおそれがあります。

吉川の官舎の近所には日本茶屋「春潮楼」があり宴会場からはパールハーバーなどの近辺が一望でき、定期的に宴会と称して利用していました。

また農作業服を着て真珠湾基地の北側にあったトウモロコシ農園に通い、湾内の潜水艦の基地など偵察を行っていました。

諜報活動中、写真機は使わず見たものはすべて頭の中に叩き込み、ハワイの新聞や雑誌からも情報を得たり、ハワイ在住の日系人とも仲良くし、軍事以外の情報も得ていました。

必要があれば真珠湾海岸の海にも潜り海底の様子まで調べました。

 

収集した情報は開戦まで刻々と総領事の名で外務省へ暗号無線で打電していました。

しかし、吉川は日本軍がハワイを攻撃するとは夢にも思っていなかったのです。

各国の軍事情報は常に諜報機関の的となっていたので、彼はハワイの軍事情報も日本海軍への状況報告という位置づけでしか思っていませんでした。

最後の日本への通信は、攻撃前日のハワイ時間の12月6日に2つの電報を発信しています。

その中には防雷網に関する報告があり、『阻塞気球ナシ。戦艦ハ魚雷防御網ヲ有セズ。』とハワイ攻撃隊を喜ばす情報が含まれていました。

ただ、空母2隻は夕方までに出港して不在であることが報告されています。

打電後、真珠湾攻撃の事は何も知らされておらず、吉川は普段通り官舎で朝食を摂っていました。

 

 

次回へ続く。