日本海軍よもやま話 第19回目は「名前が判明した神風特攻隊員」のお話です。

今年は戦後77年になります。

毎年、8月と12月になると戦争と平和についてのテレビ番組が放映されています。

数年前、私が長年疑問に思っていた神風特攻隊員の搭乗者の名前が判明しました。

2年前の8月に「軍事と平和、防衛と自衛隊」で3回に分けてお話したダイジェスト版です。

 

 

 

2年前、NHKBSで放映されていた、

「零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 -後編-」より。

 

 

2013年の再放送ですがレポーターは俳優の染谷将太さん。

「零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争」で特攻隊員の様子をレポしてました。

 

 

日本が誇る零式戦闘機。

 

 

 

関行男海軍大尉の「敷島隊」出撃の場面。

神風特攻隊のニュース映像は何度も見ていました。

 

 

 

実はこの映像シーンで赤丸の搭乗員が長い間気になっていました。

割とおとなしい感じの小柄なパイロットなんです。

これから特攻という死に行く前のあどけない顔が印象的でした。

彼が何を考え何を思っていたのか、だれもわかりません。

 

 

 

このNHKの取材番組でようやく彼の名前が判明しました。

谷暢夫(たに のんぷ)海軍一等飛行兵曹です。

 

 

彼は京都府舞鶴市出身ということがわかりました。

 

 

彼が所属していたのは関行男大尉指揮の「敷島隊」です。

関行男大尉のお話は改めて致します。

 

 

昭和17年に予科練へ志願しました。

 

 

 

甲飛10期生(16歳以上の飛行予科練生)出身とわかりました。

彼らのすべてが青春時代を日本防衛に尽くしました。

現代では高校生くらいの人たちです。

 

 

この時弱冠20歳です。

 

 

予科練甲飛10期生の多くは神風特別攻撃隊員として出撃し

帰らぬ人となっています。

 

 

当時の舞鶴市は町中で葬儀を行ったそうです。

 

 

谷暢夫海軍少尉(戦死後二階級特進)の親戚の方が当時の新聞記事や報道の

インタビューをしていました。

軍神として崇められましたが、戦後の谷家はいろいろと苦労されたようです。

 

 

谷暢夫海軍少尉は京都府舞鶴市の明教寺に眠っています。