君のためなら千回でも/アメリカへ | 旅行、美術館、書評

君のためなら千回でも/アメリカへ

全世界800万人が涙したという、
君のためなら千回でも(上巻) 」でカブール生まれの著者の作品の

  パシュトゥーン人がハザラ人を弾圧したのは、パシュトゥーン人が スンニ派の
  モスレムで、ハザラ人がシーア派であることも理由のひとつだと書いてあった。

などの記述から、新聞などで何度も読んではいる、スンニ派 シーア派
対立という図式がようやく頭に入ってきたように思います。

物語の主人公である「わたし」はパシュトゥーン人 であり、「わたし」の父、ババ
の使用人、アリ とその息子ハッサンはハザラ人。

  とはいえ、わたしハッサンがともに這い這いを覚えた幼馴染みであることには
  変わりはなかったし、歴史だろうと、民族だろうと、社会だろうと地域だろうと、
  その事実を変えることはできない。

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アフガニスタンの歴史概観 http://www.jica.go.jp/afghanistan/about_afghan/rekishi.html
1880年に即位したアブドゥル=ラフマン国王は国家の統一を進めた。その 例としては、ハザラジャードと呼ばれるバーミャンを中心とするモンゴル系でシーア派のハザラ人の居住地の制圧を行ない彼らの土地の大部分をパシュトゥーン に配分し、ハザラ人を奴隷として売った。その結果、ハザラ人はアフガン社会の最下層に置かれることともなった。

海外情報資料室 http://www2.starcat.ne.jp/~delphyne/guerre174.htm
パシュトゥン族とハザラ族との関係は、正確なところどうなのでしょう?

ザハブ: ハザラ族はイラン人同様シーア派です。アフガニスタンは彼らを除けば全部スンニ派なんです。ハザラは社会の最下層の人々です。アブドゥル・ラーマンはハザ ラを相手に聖戦を発向して、スンニ派に改宗させようとしました。ラーマンの治下にはおおぜいのハザラが奴隷に落とされ、カーブルに連れていかれたのです。 そこで、伝統的に、ハザラ族はきつい仕事についています。たいへん貧困な土地で暮らしています。けれども1979年、イラン革命の時ですが、イランがハザ ラジャードに多額の出資をしました。ハザラたちは豊かになったのです。移動民の道筋に沿ってハザラ族の市場がありますが、大いに繁盛をしました。伝統的 に、パシュトゥン族の移動民はハザラジャード盆地に来て、家畜に草を食べさせます。そしてハザラ族相手に「銀行家」の役をしていました。アフガニスタンで は移動民のことを「マルダル」と呼ぶことがありますが、「資産家」というような意味です。ハザラ族の人たちは皆、パシュトゥンから借金をしていました。さ て、ソヴィエトとの戦争の時期の話になりますが、パシュトゥン族たちはソ連が侵入してくる前に既に、移住を余儀なくされていました。彼らが棄てて主のなく なった土地をハザラ族が自由に使うようになりましたが、借金ももう返さなくなったのです。タリバンが権力につくと、このパシュトゥン族たちが戻ってきて、 返済を要求しました。これが民族間の激しい争いのもとになっています。
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この「わたし」の幼いころの、使用人の息子のハッサンとの思い出のあたりを
読んでいて、なにかを思い出しました。 
中学生の頃に読んだ「次郎物語 」のような気がします。

平和な日々のなか、ソ連のアフガ二スタン侵攻 がはじまります。

カブール北部にある裕福な新興住宅地から、「わたし」とババはパキスタン
へと脱出します。 脱出途上。

 「カリムの言葉は尻すぼみになったが、その顔はソ連兵に目をつけられ
 た若い女性を指し示していた。
  ・・・
 白髪まじりで恰幅のいい二人めのソ連兵は、たどたどしいペルシャ語で
 わたしたちに話しかけ、部下の誤った行動を謝罪した。
  ・・・
 「・・・ ここにくるとすぐにドラッグの味を覚えてしまう」 

シルベスタ・スタローンの「ランボー怒りのアフガン」より、この
この「君のためなら千回でも 」の方が、ソ連兵の不作法に対する、
怒りを読者の記憶に残すように感じます。


            ⇒ 君のためなら千回でも/カルフォルニアン州フリーモント  につづく
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 一方、侵攻後のソ連兵の麻薬中毒の後遺症も深刻で、このあたりは
 いろいろと事情が入り組んでいます。

[ 関連 ]
* アフガニスタン再建の躓きの石-麻薬取引のグローバル化
対ソ戦に導入されたアフガニスタンのアヘン
黄金の三日月地域におけるアヘン取引は,ソ連のアフガニスタン侵攻,及び,ソ連と戦うCIA
の行動と密接な関係にある。ソ連のアフガニスタン進駐は1979 年から1989 年まで続いた。
1979 年時点では黄金の三日月地帯のアヘン生産は大きなものではなかった。せいぜい,局地的
な取引が行われていたに止まる。高度な化学的処理を必要とするヘロインなどは,パキスタン
やアフガニスタンではまったく生産されていなかったのである(McCoy[1997])。
麻薬の汚染地帯でなかった黄金の三日月地域でアヘン生産が増加した背景には,ソ連に対抗
すべく,反ソ・ゲリラ組織のムジャヒディン(Mujahideen)にCIA が梃入れしたことがある。
http://www.ritsbagakkai.jp/pdf/435_03.pdf より

* 米、“枯れ葉剤作戦”を検討 アフガンのケシ対策で
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/99309/

* はてな キーワード 君のためなら千回でも