写真の「血の川」は、金沢市木越町あたりで、すぐに河北潟にそそぐところです。
この木越は戦国末期、加賀一向一揆の最後の砦といわれたところです。
織田信長旗下柴田勝家勢の佐久間盛政の軍勢と、一揆方が激戦を繰りひろげました。
佐久間盛政は、のち金沢城の初代城主となった人物です。
この戦いで双方に多くの死傷者が出て、その血でこの川が赤く染まったところから、この名がついたという。
きれいな看板ですが、ついこの前までは木製で、血の川の文字が読めないほどのもので、
その方がよかったかな。
ところで、この付近に「大人の足跡」の伝説があるのです。
一向一揆の戦いでは、この木越に三光とよばれる寺があったのですが、そのトップは光徳寺ですが、
その次の光琳寺の光琳坊という僧侶が、並みいる侍を相手に大奮闘したのです。
これは『亀の尾の記』という地誌にあるのですが、どうも光琳坊が活躍したイメージ、
それが語り伝えられるうちに、巨人伝説化していったとみています。足跡の遺跡はありません。
『三州奇談』には、巨人の足跡がある場所として、小松の山間部の波佐谷と、
源平合戦で知られる倶利伽羅があげられています。
倶利伽羅の足跡はどこかまったく不明ですが、
波佐谷の足跡はあって、岩の裂け目から水が流れ出したいます。白山の修験とのかかわりでしょうか。
この三つの足跡について、柳田国男は「加賀を三歩で横切った巨人」と、呼んでいます。
巨人といえば、琵琶湖あたりの土を掘って、富士山の場所に運び、琵琶湖と富士山ができたなんて話があります。
概して大男・巨人の男は、大きいというだけで、怪異をしめしたりする性格をもっていない。
これに比べて大女の妖怪は、暗闇からにやりと笑ってでてきたり、時に暴力をふるったりするのです。
ちょっと怖いですね。大女・大首は、先日調べてありますのでいずれ紹介します。
木越は金沢の北、河北潟の南岸にありますが、下に近世・江戸時代の地図をのせます。
写真上の真ん中のでっぱりに二つの地名がありますが、上が「木越」、左の黒い部分が河北潟です。
木越は、水濠で囲まれた、難攻不落の城だったのです。