金沢・木越の巨人伝説 | 寒月の金沢三行コラム

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金沢は新幹線開通で、変わったようだ。どこが、どう? 身のまわりを見つめ直して、住んでいる町の光と影をウオッチ!
2016年より、1日、写真1枚と3行のコラムです。


写真の「血の川」は、金沢市木越町あたりで、すぐに河北潟にそそぐところです。

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この木越は戦国末期、加賀一向一揆の最後の砦といわれたところです。

 織田信長旗下柴田勝家勢の佐久間盛政の軍勢と、一揆方が激戦を繰りひろげました。

佐久間盛政は、のち金沢城の初代城主となった人物です。

この戦いで双方に多くの死傷者が出て、その血でこの川が赤く染まったところから、この名がついたという。

きれいな看板ですが、ついこの前までは木製で、血の川の文字が読めないほどのもので、

その方がよかったかな。

 ところで、この付近に「大人の足跡」の伝説があるのです。

一向一揆の戦いでは、この木越に三光とよばれる寺があったのですが、そのトップは光徳寺ですが、

その次の光琳寺の光琳坊という僧侶が、並みいる侍を相手に大奮闘したのです。

これは『亀の尾の記』という地誌にあるのですが、どうも光琳坊が活躍したイメージ、

それが語り伝えられるうちに、巨人伝説化していったとみています。足跡の遺跡はありません。

『三州奇談』には、巨人の足跡がある場所として、小松の山間部の波佐谷と、

源平合戦で知られる倶利伽羅があげられています。

倶利伽羅の足跡はどこかまったく不明ですが、

波佐谷の足跡はあって、岩の裂け目から水が流れ出したいます。白山の修験とのかかわりでしょうか。

この三つの足跡について、柳田国男は「加賀を三歩で横切った巨人」と、呼んでいます。

巨人といえば、琵琶湖あたりの土を掘って、富士山の場所に運び、琵琶湖と富士山ができたなんて話があります。

概して大男・巨人の男は、大きいというだけで、怪異をしめしたりする性格をもっていない。

これに比べて大女の妖怪は、暗闇からにやりと笑ってでてきたり、時に暴力をふるったりするのです。

ちょっと怖いですね。大女・大首は、先日調べてありますのでいずれ紹介します。

木越は金沢の北、河北潟の南岸にありますが、下に近世・江戸時代の地図をのせます。

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写真上の真ん中のでっぱりに二つの地名がありますが、上が「木越」、左の黒い部分が河北潟です。

木越は、水濠で囲まれた、難攻不落の城だったのです。