俗にいう亀岡文殊は、正式名称は松高山大聖寺と称し、真言宗智山派に属する古刹です。
境内約2万坪と境内続きの山林60余町歩を有し、約1200余年前に建てられた東北地方稀有の名刹で、米沢の郊外、高畠町にあります。
807年(大同2年)勅命により徳一が文殊菩薩を安置したのに始まると伝えられ、古くは文殊寺と号していた。 戦国時代に伊達政宗の崇敬を受け、天正19年(1591年)政宗がこの地を去るとき、岩出山へ共に移る資福寺の古鐘を納めた。関ヶ原の戦いの直後の慶長7年(1602年)、直江兼続は奉納詩歌会を主催して上杉家主従27名[2]が集まり、100首を奉納した。(亀岡百首)直筆短冊のほとんどが当寺に残る。(wikipediaより)
徳一は会津だけでなく、山形の方まで影響を与えていたようです。
ゆるい上り坂の参道を上がっていくと、道の脇にはたくさんの石仏が現れてきます。
それぞれに違った表情が楽しめます。
すると、右手の一段高い場所に見えてきたのは鐘楼堂、享保15(1730)年に、のちに即身仏になったと伝わる待定坊というお坊さんが諸国を行脚して集めた浄財で建立したそうです。鐘楼堂の前には十六羅漢の石像があります。
亀岡文殊は、日本三文殊のひとつに数えられています。他の二つは安倍文殊院(奈良県桜井市)・切戸文殊(京都府宮津市)です。
文殊堂の全景ですが、白い囲いが下がっていました。工事ではないようなので、冬季の寒さや雪の対応なのでしょうか。
文殊堂の右手には、縁結び観音が祀られています。
お堂の上部には、木彫の飾りが見えます。緻密な細工が施されていました。
素朴な感じの狛犬が鎮座していました。表情は長い年月で摩耗しているので迫力はないけど愛嬌を感じます。
大黒天、当山開基の徳一上人の作で、生き大黒、走り大黒といわれ、軽くなり給えと念ずれば軽くなり、重くなり給えと念ずれば重くなり、願望達成の時には軽くなると伝わる霊験あらたかな大黒様です。
お堂の裏側の右奥には「利根水(りこんすい)」と呼ばれる水が湧き出ています。飲めば文殊様の知恵を授かることができると昔から言われています。
いくつになっても、知恵はありがたいので、ボケ防止にいただいてきました。
和算の額が奉納されていました。さすが知恵の仏さまです。
そして、受験生の合格祈願
十六羅漢の標示があるのですが、そこにあるのは七体しか見当たりません。なくなってしまったのか、参道の脇に鎮座しているものも含めて数えるのか…
七体の羅漢様
あの松尾芭蕉も立ち寄っていったようです。