第5章 浪人

 父親が浪人経験者だったため浪人と予備校通いは許してもらえた。この点は感謝している。3月で覚えていることはあまりない。ただひたすら勉強していたことと坂口安吾の『堕落論』を図書館で借りたことだけは覚えている。

 予備校暮らしが始まってからはただひたすら勉強した。一心不乱に勉強した。具体的な勉強時間は書くことができない。というのも勉強時間を意識しないほど、勉強することが当たり前になっていたのだ。試しに今日、食事や排泄にどれくらいの時間をかけたか思い返してみてほしい。恐らく具体的な時間は出てこないであろう。それほど日常の一部と化していたのである。当然と言えば当然かもしれない。単純なことだが浪人というのは現役生より一年長く勉強している。スタートラインが違う。実感した者でないと分からないかもしれないが、追う側よりも追われる側の方が圧倒的に精神はすり減る。いつ自分が追い越されるか分からない、その不安に脅かされながら生活するのは並大抵じゃないストレスに襲われるのだ。陳腐な表現を使うならばこの一年はそれこそ死ぬ気で勉強していた。後のなさと地獄みたいな家庭環境が絡むのだから当然であろう。この時期の消耗具合を一言で言い表すならば「香木」と例えることができよう。生きることへの気力を少しずつ、少しずつ削っては香炉にその欠片をくべて燃やしそのエネルギーで勉強する。薫りが切れたらまた気力をじりじりと小刀で削り取り…という行為の繰り返し。3月10日が来るのが先か、それとも性根尽き果てて死ぬのが先か…分からないままに時間は過ぎていったのである。そんな中でも家庭環境は良くならなかった。なんなら少し悪くなった。母親からの罵倒の言葉に「穀潰し」という単語が増え、「私は本当はあんたに神戸大学に行ってほしかったのに!なんで蹴ったんや!」とヒステリーを起こされるようになったのだから当然であろう。

 

 浪人期間中、よく難波に行った。理由は3つ。1つは難波駅のすぐ近くにある寺、法善寺の水掛け不動に参詣するため。現役生だったころは神頼みをするのは十分な努力をしてこなかった人間のやることだ、と冷笑していたものだが本当に追いつめられると人間藁にも縋るものらしい。不動像に水を掛けて一年に祈った。実家は真宗であるにも関わらず。というより、宗教に関係なく何かと信心深くなった。まこと浪人とは恐ろしい、一人の信念を変えるのだから。2つに自分の趣味のサブカルチャー系の商品を取り扱う日本橋に行くためには難波で降りる必要があったから。打って変わってひどく俗っぽい理由だ。3つは飲み屋街を歩くためである。別に未成年飲酒を図ろうとしていたわけではない。人並みの遵法意識は備えているつもりである。そのような場所を訪れていた理由は傷つくためである。自傷行為をする理由として「痛さを感じている時は自分の存在を感じることができるから」というのを聞いたことがある。しかし私は根が臆病であるのでリストカットなどは当然できない。痛いのが怖いのである。ちなみに私には爪を噛む癖があるが、その派生で指を噛む癖もある。幼少期の指しゃぶりの延長であると思われ、気が付いたころにはこの癖がついていた。共生を目指したこともあるが治るに治らず今に至る。指は滅多に噛まないが本当に辛い時には噛む。先ほど述べた二次試験数学中の暴挙も恐らく、この一種の自傷行為であろう。ただ無意識的に自分を傷つけることとわざと傷つけることとの間では雲泥の差がある。閑話休題。自傷の勇気がなかった私がどうしたか、精神的に自傷行為をすることである。爛々と輝き美味しそうな匂いのする飲み屋の通り、仕事帰りで楽しそうな飲み会連中やイチャイチャするカップルたちから生じる人いきれの間を、死んだ顔をしながら通り過ぎた。事情を知らない人がもし見かけたならば、100人中97人は奇妙に思っただろう。周りの目を気にしなくなるほど毎日が必死でもあったのだ。あまりにも惨めだった。寂しさを感じることで生きていることを実感した。そのような徘徊の末に大体たどり着いたのは道頓堀である。戎橋の麓でまばゆく色鮮やかなネオンがゆらゆら揺れながら水面に映るのを見つめてこんな考え事をよくしていた。もっとマシな人生はなかったのであろうか、と。19年……19年である。歴史をやっていると19年というのはとてつもなく短く感じる。1800年代以降ならば「最近」と表現するような世界であるから当然であろう。たとえば日本が満州事変を起こして敗戦するまでは14年、フランクリン・ルーズベルトが大統領職にあったのは12年、ネルソン・マンデラがルベン島に収監されていたのは18年…文字で見ると実感が湧かずその程度か、と思ってしまいがちだ。しかし実際に生身の時間を過ごしてみるとこの評価はガラリと変わる。一人の人間が過ごす19年というのは途方もなく長いのである。この19年をもっとマシなものにする方法はなかったのか?考え飽きるほどに何度も何度も考えた。どこで道を踏み外したのだろう?どこで選択を間違えたのだろう?分岐点の候補はいくつか浮かんでくるが、そこで違った選択をしていたらと仮想してみても最終的な答えは変わらなかった。その分岐点を安全に通過したとしてもまた別の分岐点で選択を間違え、そしてこの道に合流するように思えてならないのだ。どこで間違えた?どこで間違えた??どこで間違えた???そう問い続けて自分の人生を顧み続けた先に必ずたどり着く答えが一つ―――生まれてきたこと自体が間違いであった。著名な哲学者がある種の運命論や決定論へとつながるのはこのような思索の果てであるのだろう。臆病風に吹かれて自死を選ばずなんとか今まで生き長らえていた道の末が生まれてきたこと自体の否定。なんと皮肉で滑稽なことであろうか。眼前の光景とはあまりに対照的な、純黒の絶望。この結論に2、3回の試行をして辿り着いた時に一日の授業と精神的自傷行為の疲労感を携え、フラフラと道頓堀を後にして御堂筋線に乗り込む。全てに疲れ切っていたのだ。

 共通テストを直前に控えた真冬、ある変化が起こった。死ぬことが頭に浮かぶようになったのである。それまでの浪人期間中も浮かぶことはあったが今までの浮かび方とは根本から異なっていた。自分がどこで死ぬか、いつ死ぬか、どうやって死ぬかという情報が精緻に明確に文字化され、頭の中を流れていくのである。浮かんできた死の幻影は、幻影という言葉が当てはまらないほどに論理的であった。適応障害を患った頃は感覚で死を感じたが、この頃は頭で死を感じていた。共通テストを好成績で終わらすことができた後はこの想起は発生しなくなったことは幸いであるが。

 二次試験直前もずっと予備校にいた。家にいたら何があるか分からなかったからだ。その戦略が功を奏してか大きな障害は起こることなく二次試験当日を迎えることができ、試験でも終わった直後に手応えを感じることができた。試験が終わってからは後期の勉強をしていたが、その間に改めて意思を強くしていた。今年無理だったら近くの公園で首を吊って死のう。本気でそう思っていた。そして3月10日、合格発表ページに自身の受験番号を確認することができた。確認した直後はただ呆然としていた。隣家に住む祖父母に合格を報告しに行っている時、死ななくてすんだという安堵感に一気に襲われた。一気に脱力感に襲われ、庭でただうずくまって動けなくなり、ただひたすらに泣いた。声を押し殺して泣いた。惨めなまでに泣いた。

 

(大阪脱出⑥ 最終章へ続く)