第2章 気がついたら適応障害になっていた話

 

適応障害(てきおうしょうがい)

日常生活の中で、何かのストレスが原因となって心身のバランスが崩れて社会生活に支障が生じたもの。原因が明確でそれに対して過剰な反応が起こった状態をいう。日常生活の中で起こった出来事や環境に対してうまく対処できず、心身に様々な症状が現れて社会生活に支障をきたす状態をいいます。ストレスの原因が明確であることが定義上重要となります。症状はゆううつな気分、不安感、頭痛、不眠など、人によって様々ですが、仕事や学業などを続けたり、対人関係や社会生活を続けることに問題のある状態となります。これらは一般的には正常な人にも現れる症状ですが、適応障害の場合はそれを超えた過敏な状態となります。治療にはまず原因となっているストレスを軽減し、心理的に回復させることが必要です。また、場合によっては薬物療法が必要なこともあります。

※厚生労働省作成「e-ヘルスネット」より引用

 

 

 今でもあの日のことは鮮明に覚えている。その日は中学二年生の夏休みの真っただ中だった。いつも通り夏休みの課題に着手しようと机の前の座布団に座り、鉛筆を持った時だった。その瞬間から、私は夏休みの宿題に何一つ手をつけられなくなった。机の前にただ座っているだけ。考えがまとまらず、筆を動かすことができないのだ。ただただ時間だけが過ぎていき、何もしていないはずなのに疲れだけがどんどんどんどん溜まっていく。こんなことは人生でも初めてであったが、その時は今書いているような冷静な思考はできなかった。やる気が起きないという今の状態を処理するだけで脳がいっぱいになっているといえばわかりやすいだろうか。ここだけで変調が収まればまだよかったかもしれない。具体的な日数は覚えていないが、確か数日後だっただろうか。布団から出ることもままならなくなった。一日中スマートフォンを触って面白いか面白くないかよく分からないpixivの4コマ漫画を流し読みして充電が切れるとどうすることもなくただ横になり、眠るか、もしくは虚ろな目で天井を向いていた。気が付くと夏休みは終わっていた。これが私の適応障害の発症である。

そこからは散々な日々だった。変に責任感だけはあるため部活の仕事をやめることはできず、家にいても怒られるだけなので遠い学校に毎日行くしかない。家に帰ってくれば怒鳴られ罵倒されるだけの日々。適応障害というのはストレス源から離れることができれば治るということだが、それは同時にストレス源から離れなければ治ることはない、ということでもあるのだ。結果的に1年以上この病気と付き合うこととなった。適応障害の日々を例えるなら「終わりの見えない真っ暗なトンネルをただひたすら這いつくばって前に身体引きずりながら進む生活が延々と続く」といった感じだろうか。慢性的な苦しみほど耐え難いものはない。具体的な症状でいうとどうだったのか。よく鬱の症状として全てが億劫になり、不眠や食欲減衰に悩まされると聞く。私の場合は逆であった。三大欲求のすべてのパラメータが振り切れたのだ。まず睡眠。24時間のうちどれだけ寝ても頭の重さというか頭のモヤが取れない。帰ったらまずベッドに潜らずにはいられないという生活が始まったのだ。しかも睡眠時間と比較して疲れは全く取れない。それもそうだあろう。悪夢をずっと見ていたのだから。悪夢を見ることはそれ以前にもあったしこの病気が治ったあとにもしばしばあったがこの期間ではほぼ毎日見ていた。具体的な夢の内容はあまり覚えていないが、高いところから落下死したり四方八方を炎で囲まれて焼け死んだりただひたすらに怒鳴られたり…どんな夢を見ても汗だくの状態で深夜に目が覚めたことは覚えている。次に食事。もともと食べる量が多かったがそれがさらに増えた。嘔吐などはしない。食っても食っても腹が減るのである。その証拠にこの期間の自分の写真はけっこう太っている。で食欲、睡眠欲とくれば残るのはあと1つだが…まぁそういうこともとにかく一人でした。今から思うとありえない回数を一日にしていた(なけなしの名誉のために具体的な回数については記述を控えさせていただく)。で、出すもの出し切ったあとにものすごく重い、いわゆる賢者タイムとは別の虚無的な感情に襲われるのであるが、そんなのにおかまいなしにとにかく繰り返した。理由は単純明快、それくらいしかストレスを少しでも確実に減らす手段がなかったからだ。こんな調子だから当然荒んだ生活をすることになる。過眠によってもともと弱かった朝にさらに弱くなり、過食によってさらに太り…。朝の通学途中の電車であまりの疲れに寝入ってしまい和歌山県まで流されたり、学校に行く気力が湧かなくて乗換駅のコンビニでただ週刊誌の立ち読みをしたり待合室でボーッとすることで時間をつぶしたり、通学中に路上でぶっ倒れて地元の人に大声で「大変や!人が倒れとる!」と叫ばれたり、行かないことを決断するに至る別の理由もあるがこの精神状態が一因となって台湾への修学旅行に行け(か)なかったり…この期間のことだけで文章をもう一本書けるくらいにはエピソードが(望んでなった病気ではないにしても)豊富なのだが、話が脇道に逸れるのでそれらを書くのは別の機会に任せる。ただわかってほしいのは、それでも必死に生きていたということだ。出口の見えない暗いトンネルの中をただ一人で這いつくばって前に進んでいるというか、嵐の海の中を溺れかけながらなんとかもがいて遠くの目的地へ必死に近づこうとしているというかそんな感じだ。中学3年の春には大阪市内の病院で適応障害だと宣告を受けた。これで何か変わると思ったのも束の間、あの母親の自身への対応は何一つ変わらなかった。むしろ悪化したといっていい。攻撃材料の手札となるものに新しく「病気」が加わったのだから当然だろう。特に折檻の際に「病気かなんか知らんけど」という枕詞を使われ、また「お前のその状態はただの思春期っていう誰にでもある普通の状態でそんなのなんの言い訳にもならん」と言われたときには目の前が真っ暗になった。惨めだった。辛かった。死にたかった。自分をこんな状態にした全てが憎いと思った。ただ、ただ異常状態にあることを認めてくれればそれで満足だったのだ。後に通院していたメンタルクリニックの先生にその話をしたら「思春期」という言葉に全ての責任を託している可能性があるといわれたが、もしかしたらあの母親にもそのような部分があったのかもしれない。逆に自身をこんな目にした合理的な理由が、せめて1つだけでもあってくれと私が思っているだけだが。

 この期間でもっとも印象深いことは何かと問われたら「自分が死ぬ様子がはっきりと見えた」と私は答える。それは幻影というにはあまりに生々しい自分の死の像である。うまく言語化はできないが…駅のプラットフォームに立って電車が来るときには毎回、自分が線路に飛び込む様子というのがはっきりと映像化されて鮮明に映るのである。まるで映画を見ているかのような感じで、第三者目線で自分が飛び込んでいく様子を見たのはしっかりと覚えている。将棋棋士の先崎学が『うつ病九段』という、うつとの闘病記で似たような話を書いていたのだが、曰く「線路に吸い込まれる感じ」とのことだ。今思い返してみても正鵠を射ている表現だと思う。死のうという意思を感じるのではなく死に向かって身体が自発的に動くのである。この鮮明な記憶は病気から離れた今も脳裏に焼き付いている。おそらく死ぬまで忘れることはないだろう。

 

 適応障害の終わりは意外とあっけなかった。先ほど部活で副部長をしていたと書いたが、中学三年生の冬になってその職を引退するとストレス要因が一つ減ったからか自然とゆっくりゆっくり、しかし少しずつ確実に快方へと向かっていった。過眠に悩まされることがなくなったが、無気力な感じと様々なことへのやる気の減衰はしばらく尾ひれを引いた。何より価値観というか人生観というか、ものの見方がガラリと変わった。それも当然だろう。中学2~3年といえばそれまでの人生の中で一番楽しい青春の真っただ中といっても過言ではないだろう。その時期を丸々、適応障害との闘争に費やすこととなったのだ。当然人格は歪む。周りが和気あいあいと、誰それちゃんが誰それくんと付き合っただの、なになにくんとユニバやカラオケに行ってきただの、部活の大会で俺たちはいいところまで行っただの、そういう話をクラスで聞くたびに鬱屈とした感情はブクブクと膨れ上がっていったわけだ。「畜生、畜生、畜生。みんな良い思いしやがって。なんで俺だけこんな目に」。その結果、数の多い集団からは変に距離をとり、斜に構えた、冷めた態度を取るようになった。大衆迎合を許さず孤高の存在として生きることを悟った…といえば恰好がつくが、要は天邪鬼を強めただけである。高二病の発症を早めたといってもいい。次に物事には何か裏事情があるのではないかと思考に一段階‘‘層‘‘を設けるようになった。以前に比べると格段に内省的になったのである。猜疑心と言ってもよいのかもしれないが、物事を多角的に様々な視点から見ることができるようになった、という一面もある。今の自分はこの瞬間からの延長線上…もとい地続きに存在している。京大の誇る東洋史学者、内藤湖南は応仁の乱の歴史的影響の大きさを評して「今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以降の歴史を知っておったらそれでたくさんです。」と述べているが、自分にとっての適応障害は湖南の史観における応仁の乱に近いと個人的には感じている。またこの期間で起こった変化で特筆すべき事項は、ものを書くことを覚えたということである。先ほどあらゆることのやる気がなくなったと書いたが、そんな中でも歴史や地理の本を読んでいるときは心なしか気持ちが少し軽くなった。こんな精神状態でも世界遺産検定1級という資格を取ることができたし、調子がいい時には一心不乱に司馬遼太郎を読んでいたことを覚えている。本当に好きなものであったのだろう。また歴史への関心が長じてインターネット上の百科事典サイトで関心のある記事の作成や編集を行い始めたのもこの頃のことである。具体的な始めた経緯は覚えていないが多少の元気を振り絞って結構な項目の編集を行った。当時の自分は知る由などなかったが、この作業は文章の練習という観点では非常に大きな役目を持っていた。この時の経験があったからこそ、今もこうしてカタカタとタイピングをしているのかもしれない。他にあった変化といえば…些細なことだが、この病気を経験した後からよく笑うようになった。とにかく笑う頻度が増えたように感じる。笑いの種類は愛想笑い。なぜだかは分からない。「幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せなのだ」と言っていた心理学者がいるが、病気の反動としてある種の防衛機制が無意識化で働いたのではないだろうか、と考えている。精神分析学に造詣があるわけでは断じてない素人だから間違っている可能性の方が高い推論ではあるが…。

 こう書いた通り、適応障害の期間とは良くも悪くも現在の自分を語る上では決して外すことのできない構成要素であるのだ。経験しなくて良い方法があったのなら喜んで経験しない方を選ぶのだが…。中学での青春を犠牲にして適応障害を克服した後、私は高校に進学した。高校に入ったら今までとは違う素晴らしい生活が待っているかもしれない、そして大学受験まで一所懸命に勉強をして現役合格をして一人暮らしを始めるのだ。適応障害なんて経験している中学生は少ないだろう。そろそろ報われてもいい頃合いだ―――その希望が打ち砕かれることになろうとは、当時の私は思いもしなかった。

 

(大阪脱出④ 第3章へ続く)