第一章 人格形成失敗サンプル

 そもそもなぜ、落ちたら死ぬしかない状況に追い込まれたのか。それを紐解くためには私の半生に染み付いたトラウマを一つ一つじっくりと丁寧に見ていく必要がある。そもそも自身の人生を振り返り、その上活字にしてきたことはないため自分史上初の試みだ。ここから先は非常に読み辛いものになるし、そして私にとっても書き辛いものになる。できたら書きたくないと率直に思う。だからこそ書く価値があるのかもしれないのだが。

 

 私には4人家族がいた。父、母、兄、妹。私の人生を語るに際して、絶対に抜くことのできない人間が一人いる。それこそが私の実の母親だ。母の意向が私の育った家では絶対であった。かかあ天下などという生易しいとぼけた日々気のするものではない。逆らえばまず怒鳴り声が飛んでくる。次に出るのは暴言。最後に出るのは手か足だ。床に叩きつけられたときに耳から流れ出た血の赤さ、脅しで使うために包丁を台所から抜いた時の、あの妙にしっとりとした金属音、これまた脅しで使ったチャッカマンの炎の揺らめき、髪の毛を引っ張られたときに「ブチブチッ」と抜けていく音、泣きすぎてビショビショに濡れた枕のひんやりとした気持ち悪さ…全て忘れることができようか。忘れることができたらどれほど楽だっただろうか。殴る、蹴る、何度も何度も踏みつける、耳を引っ張る、突き倒す、平手打ち…洗面器で叩かれもしたしテレビのリモコンや針金ハンガーを投げつけられもした。私が物心ついた時にはすでにこうだったのだ…。覚えている中で一番古い記憶はいつだろうか…そうだ、あれは妹が生まれた直後だから4歳になったばかりのときだ。確か妹がスヤスヤと母親の横で眠っており、幼かった私は寝室の中をひっきりなしに動き回り、母親に話しかけていたと思う。それに対して母親が「うるさい!」と一発頭を結構な強さではたいてきた。これが覚えている最初の虐待を受けた記憶だ。しかし奇妙なことに、その時に「なんで叩かれたのだろう?」と疑問に思わず、むしろそのことを当たり前のことのように感じた気がする。もしかしたら記憶にないだけでそれより前から暴力は始まっていたのかもしれない。どっちにしても今に至るまで暴力というのは日常の一部であり、そして恐ろしいことに、どの家庭の子供も日常的に暴力を受けていると中学生の頃まで本気で思っていた。中学のカウンセリングで相談に行った際、カウンセラーから「それは普通のことじゃない、異常だ」と指摘されて初めて気がついたのだ。目から鱗が落ちる、という諺があるが人生を通じてあれほど鱗が落ちた瞬間は思い返しても存在しない。

暴力だけで済むといい、むしろ暴力は中学校高学年になると‘‘少し‘‘止んだ(ここで注意してほしいのがなくなった、とはあえて書かないことである)。すると今度は暴言や怒鳴り声がますます増えていった。ますますというのだから生まれてこのかた、言われ続けてきたことに変わりはないが。具体的に何を言われたかは書かない。あまり書きたくない。実はこの文を書くために高校の頃からきまぐれに取り始めたメモ帳を読んでみたのだが、涙しか出てこなかった。ヒントを出すとその‘‘しつけ‘‘の言葉の一類型には「精神病院」という単語が出てきたことがあるとだけ言っておこう。これが私の日常であった。語らない部分は察しておくれ。小学校から言われてきた言葉の内容を抜きにしても、あの声色が恐怖として刻み込まれた。あのヒステリックな金切り声に風船が裂けるような大声…関係ない状況であったとしても、未だに私は大きな音を聞くと恐怖で震えてしまうことがある。ここで辛いのが相手は私のあらゆる情報を攻撃材料にしてくるということだ。たとえば私は、それなりに勉強はできていたのだがそれを材料にして「勉強はできても日常的なことは何一つできないんだな」という風に攻撃してくる。行動、成績、所属した部活動、趣味嗜好、エトセトラ…全ての情報が言葉の弾丸へと変貌するのである。家にいないからといってこの恐怖から解放されるかと思えば大間違いだ。LINEを使えばたとえ私が地球の裏側にいたとしても怒りを伝えることは可能なのだ。通知を見るだけで動悸が早くなった。「何かしでかしたのだろうか、怒られたくない、頼む、関係ないことであってくれ、頼む」と願い、恐る恐る通知の内容を確認してみると母親以外の人からのメッセージであったり事務連絡であったりすることもしばしば起こった。学校や予備校の授業が始まる前にこの通知マークを見てしまうともう大変である。授業中にスマートフォンを触ることはできないため、メッセージの確認ができない。すると不安感だけがただ大きくなり、思考を支配されてまともに授業を聞けなくなるのである。

 いつくらいからだろうか。親に怒鳴られると涙が止まらなくなったのだ。頭の中はなんとか冷静であろうとしてもなぜか涙が出てくる。こんな現象は親以外に怒られている時にはまずない。しかし生理的になぜか、親に怒られている時にはこうなるのだ。ある種のトラウマとして身についているのだろうか。そして泣き出すから「怒られたときに泣けばなんとかなると思っている卑怯者」というレッテルを貼られてさらに怒られてまた泣いて…の繰り返し。すり減る精神が足りないというものだ。

 

この状況をどうやって乗り切ろうとしたのか。母親に怒られている時に何かしらの方法で抵抗する?不可能だ。殴り返しても言い返しても、その倍になって代償を払うことになる。全てが終わった後で物に当たったり、大声をあげたりして気を晴らす?大きな音がしたらすぐさまあの女が飛んできて殴りつけてくるのでそれも駄目だ。そうなると方法は限られてくる。答えは沈黙。それすなわち耐え忍ぶこと。どんな状況でも相手の言うことに対して同意し続ける。自分をけなすことを言われれば自分で自分を罵る言葉を吐き、指示や命令には従順に従う。それ以外の場面では沈黙を保ち続ける。一番少ない被害で済む方法はそれなのである。似た「処世術」として行動を放棄する、というものがある。あの母親は完璧主義だ。何か家事の手伝いをするとどこかしらで方法に綻びが出て「こんなことも分からないのか」とその一点をネチネチと指摘される。何もしなければ少なくとも自分から火種を作らなくて済む。だからと言って「なぜ自分で考えて行動をしようとしないのか。言われなければなんでもかんでもやってもらえると思っているのか。私はお前の奴隷か。」と言われるのだが…。リスクの少ない方を選択するのは有史以来の常套手段であろう。しかしこのような状況が健全なわけではない。心身ともにすり減っていく。全ての行動の動機が「怒られないため」となる状況はとてつもなく辛い。怒られたくないから失敗の後始末に時間をかける。怒られたくないから失敗の補填のために使わなくてよい金を使う。怒られたくないから失敗の隠匿のために嘘をつく(バレたらいつも以上の激しさで叱られるがバレなければ叱られない。ハイリスク・ハイリターン。人間がギャンブルにハマるわけである)。そんな生活を続けたらどうなるか。ひねくれにひねくれた挙句、腹の中は真っ黒に。つむじとへそは180度きれいに曲がった。人格形成失敗サンプルの完成である。歪みというのは、げに恐ろしい。

 

余談程度ではあるが兄の話もしておこう。私には兄と妹がいる。三人兄弟の真ん中だ。兄と私とでは1学年差だが兄は4月生まれ、私は1月生まれ、実質2歳ほど離れているのだ。幼少期から自分の好きな話ばかりする人間であった。興味がない様子をみるとすぐさま期限を損ねて最悪の場合はゲンコを喰らわされる。というか学校の人間関係でも色々と悩んでいたらしく、いじめにもあっていたみたいだ。だからといって同情はできない、なぜならそのストレスの捌け口というのは全てこちらにやってきたわけなのだから。ちなみに関係改善の兆しも見えたが今年の正月に許すことのできない暴言を吐かれたため絶縁中である。どういう暴言だったかは思い出したくすらないので書かないこととする。恐らく今後縁を結びなおすことは不可能だろうし、結びなおす気も起らない。母親も兄貴もそうだがとにかく憎い。許されることなら包丁でめった刺しにしてやりたい。ガソリンをぶっかけて火をつけてやりたい。しかしそういう行為はするわけにはいかない、晴らせないままに恨みだけが積もっていった。

 

 この環境で過ごしていた結果、ひねくれた以外にどういうことが起こったか。空気を読むのが上手くなった。もともと自分は空気を読むのが生まれつき苦手らしいのだが、このような地獄みたいな環境で過ごしていたら空気を読まざるを得なくなっていく。人の雰囲気を読むのも上手くなった。例えば家に帰って「ただいま」と言う(言わないとなぜか怒られる)。そして帰ってくる母親の「おかえり」という短い返答の声音、もしくは無返答という事実から母親の機嫌を大まかに感じ取ることができるようになった。恐らく小学校くらいからだろう。『暗殺教室』の主人公、渚くんも似たような話を言っていた気がする。毒親育ちには共感が湧く。

 加えて家の外で気を配ることがかなり上手くなっていった。雑用も進んでやるようになった。なんでだろうと考えたら一つの仮説が浮かんだ。先述した通り家で感謝されることはかなり少ない。むしろ下手なことをしたら拳か怒鳴り声が飛んでくるのだから当然だろう。しかし家の外だとどうだろう。誰も消さない黒板を消すだけで、誰も掃除しない部分を箒で掃くだけで感謝されることがある。感謝されない場合でも咎められることはない。この事実に虜になっていったのかもしれない。あるいは強迫観念だろう。家でさんざん役立たずのような扱いを受けていたから家の外でも「誰かの役に立っていないと怖い」という恐れが生まれる。ある種の承認欲求とでも言えばよいだろうか。家の中だけでなく外ですら、見捨てられるのが怖かったのだ。その結果として周囲への気配りが上手くなっていったのではなかろうか。

 

 ここから先は人生を振り返っていこう。生まれ落ちて幼稚園に入って小学校に入学して…小学校三年生くらいまでは休み時間にドッジボールを好んでしに行くくらいのイケテル側だった。小学校四年くらいから何かがおかしくなりはじめた。内向的になっていった、とでも言えばいいだろうか。小学校五年になるといじめの対象になった。いじめというよりも集団ではなく、独立した個々の嫌がらせの対象になったと言えば正確だろうか。その結果、一時期保健室登校になっていたこともあった。学校を休んだこともあったが…一週間もしないうちに辞めた。理由は単純、学校でいやがらせを受けるよりも家で鬼と一緒にいることの方が辛かったからだ。小学校六年、個々の嫌がらせは相変わらず続いた。人間関係が辛くなったので某中高一貫校を受験。無事合格。中学校生活もはじめは順調だったことを覚えている。自分と‘‘合わない‘‘人とははなから距離を取ることで精神の安定化を画策した。初めのうちは上手くいっていた。が、中学2年の春ごろになると少しずつ破綻が生じていった。元来、我が強い性格だったし精神的にも未熟だったためそういった距離を取った人を媒体としてちょっとしたいさかいが起こるようになった。しかしこれ単体は全然問題なかった、小学校時代の嫌がらせの連続の方がよっぽど辛かった。だが…同時にいくつもの悩みの種ができたらどうだろうか?まず中高一貫校というだけあって勉強はかなりハードである。自分の場合は数学が駄目だった。で、この落ちこぼれた分を挽回するという悩みの種が一つ。次に中学当時、在籍していた部活では成り行きで副部長に就任した。そちら側はかなり多忙を極めた。悩みの種がもう一つ。先ほどの人間関係のいさかいに、前述の家庭内不和。このような状況が続いたらどうなるだろうか。当然、人間は壊れる。そして実際、私は壊れた。

 

(大阪脱出③ 第2章へ続く)