大阪脱出

 

序章 高架上から

 

 今、京都に向かいながらこの書き出しを書いている。高速道路の上から、のっぺりと右手に広がる山々を見ながら書いている。視界が揺れ、両眼に熱さを感じながら書いている。別に大阪での暮らしを思い出して感傷的になっているわけではないし、これから始まる新生活に思いを馳せて感極まっているわけでもない。ただ―――「死ななくて済んだ」という単なる事実に心の底から安心しているのである。

 まず私のことを書かなければならない。私は大阪で生まれ育った京都大学の学生(にこれを書いている時点ではもうすぐなる予定の者)である。一年間、大手の予備校で浪人をしていた。合格発表日の後日、予備校にて同じく京大生となることを約束された者たちが「浪人生活も意外と悪くなかった」「人間的に成長できた」などと言っているのを少なからず聞いた。確かに予備校で受けた授業というのは刺激的だったし、何人かの講師とは良好な関係を築くことができたし、友達というのも……ほとんどいなかったが一人はできた。しかしそれでも、あえて言わせてもらおう。浪人は地獄である。生き地獄である。やってよかったなどとは口が裂けても言えない。言えるわけがない。この一年、いつ死ぬか分からなかった。でまかせでも何でもない。本当にいつ死ぬか分からなかったのである。付け加えるならば、大学に落ちたら家の近くにある緑豊かな公園で首を吊って死のうと思っていた。こんなことを書くと怒られそうだが、「浪人してよかった」などと言う人は貴重な一年を無駄にしてしまったという事実を覆い隠したいがために、その代償を無理やりにでも「合格」という華々しい事実で上塗りし、自分を騙して正当化したいだけではないだろうか。私は浪人期間中に感じた負の感情を忘れたくないと思っている。上塗りしたくないと思っている。なかったことにしたくないと思っている。

 

 『如是我聞』を知っているだろうか。無頼派の文豪、太宰治が山崎富江と心中する前に書いた最後の小説が『グッドバイ』であることは有名な話であろう。しかし太宰治最後の評論は何なのか、思い当たるだろうか。そのタイトルこそが『如是我聞』である。元は仏教経典の言葉で書き下すと「是くの如く我聞けり」、すなわち「私はこう聞きました=あくまでこれは私の一意見にすぎません」という意味である。太宰治はタイトルにて私の一意見ですと前書きをした上で当時の文壇を批評した。いいや、罵倒したと表現するほうが適切かもしれない。太宰は『如是我聞』にて志賀直哉を初めとする当時の主流作家たちに対して読むに堪えない汚い言葉で彼らを罵った。最低限の論理の他には太宰の怨嗟と情念のみが入っている。太宰治人生最後の罵詈雑言、それこそが『如是我聞』なのだ。今からやろうとしていることは至って単純、私は自分なりの『如是我聞』を書きたいのである。正確に言うならば、書かなければならないのである。別に太宰ほどの文才が自身にあると自惚れているわけではないし、自惚れるほど自己評価が高いわけでもない。むしろ負け犬根性は染み付いているわけだ。じゃあなぜこのような妄言を吐くのか。ただ…言ってしまえば、恥ずかしく、乱雑で、無様で、稚拙なある種の呪詛を書き切ろうとしているのだ。新生活を迎えるからこそ、この19年の鬱屈をできる限り発散しなくては次の段階に決して進むことはできない。立つ鳥跡を濁さず、が美徳とされている。しかし自身が住んだ清純な沢を真っ黒に染め上げてでも、自身の汚れを古巣に落としてその羽を白くしない限り、新たな地に飛び立つことは決してできないのだ。たとえどんなものになろうとも自身の過ごした19年に引導を渡すために、決別するために書く。これこそが、私がこれからこの鬱々として拙劣な駄文を書きあげようと決意した理由である。

 

(大阪脱出②、第一章へ続く)