こんばんは、Kです。
窓の外。雲が厚くなってきました。
ビルの向こうが光って見えます。これは都心のビルの灯りでしょうか?
ということは残業…
働く皆さま、本当にお疲れ様です…(働いてなくてスミマセン、、)
さて、今回は、その働くことについて。
というより、隠居生活での収入の得かたについて、考えていこうと思います。
前回までで、生活に必要な金額が月10万円だと判明したので、最終的な目標は月10万円を得ることにします。
そして今回も長くなりそうなので、また何回かに分けていこうと思うんですが、
まずは現状の自己分析も含めて、今までの振り返りをしていきたいです。
就活の必修科目である「自己分析」でも、自分史づくりは定番中の定番なので…
1.幼少期(生誕〜9歳くらいまで)
泣き虫だったと思います。あと末っ子だったのでやたら甘やかされて育ちました。
基本的に、周りにいる人間が自分よりも年上で、自分自身も早生まれだったので、
同級生の中でも誰かに引っ付いて回っていることが多かったように感じます。
兄の影響でサッカーを始めたと思ったら、友達の影響で野球を始めたり。
何かにつけて誰かの影響を受けて行動していたような気がします。主体性なしで流されやすい…
あとは、両親が共働きだったので、おばあちゃん子だった記憶があります。
しかし、幼少期はもうほとんど記憶が無いですし、当時感じてたこととかも全く憶えてないです。
これ意味あんのかな?w
2.少年期(10〜15歳くらいまで)
徐々に自我が芽生えてきて、やたらリーダー性を発揮したくなっていた時期です。
無駄に学級委員長になったり、ソフトボール少年団のキャプテンになったりしてました。
それから兄が優秀だったこともあって、比較されても恥ずかしく無い程度にはいたい、
と思い始めたのもこの時期だったと思います。
中学入学後も積極的に学級委員長になり、勉強も続けて成績もそこそこ優秀でした。
野球部でも部長を務めていて、いわゆる優等生。
高校も地元の進学校を受験して、見事合格しました。
ただ、これも上述の通り、兄の存在に引っ張られた結果だと思っています。
中学に入学後、先生方からは「○○の弟か」みたいなことを必ず言われましたし、
上述の高校にも、兄はトップクラスの成績で合格していたので、
なんかその高校に行くのは当たり前、みたいな感じでなんとか勉強を頑張ってました。
もともと大して頭良くないのに…
3.青年期(16〜20歳くらいまで)
この時期は、徐々に今までの価値観から脱却されつつある時期だと感じています。
高校は、小中学校で一緒だった人間が一気に減って、若干「地元を出た」感が生まれました。
実際は静岡の田舎学校からど田舎学校に移動しただけなんですが…
けっこう背伸びして受験したので、周りに頭の良い人が多くて楽しかったことを憶えています。
あとは、地獄の部活でしょうか…野球部だったので…
県立高校とはいえ、部員が7〜80人近くいたので、とにかくキツかったことを憶えています。
練習もキツいですし、監督(先生)も厳しかった…
明らかに人より厳しい環境で育っていたはずなんですけど、
今なんでこんな豆腐メンタルになってしまったんでしょう…?反動かな?
一度だけ、キツすぎて辞めてやろう、と思ったことがあったんですけど、
とある先輩が声をかけてくれたことで、退部を踏みとどまることができました。
多分単なる気まぐれだと思うんですが、その先輩は「明日からK(私)に俺のバッティングの全てを授けるから」
みたいなことを言ってくれて、明日退部届を出そうと思ってた僕は当惑しました。
明日から教えてくれるって言ってるのに明日退部届はヤバいな、と思い、とりあえず部活を続けました。
今思うと、辛いとき手を差し伸べて貰えることって、とても有難いことなんだと感じます。
今のどん底状態で気にかけてくれてる人には、とにかく感謝したいと思います…
4.大人期(21〜28歳)
そして最近の話ですね。
とりあえず、大学は1浪して早稲田大学に入学しました。
(野球し過ぎて勉強できなかったので、現役ではどこも受かりませんでした…)
大学選びもやっぱり兄に大しての感情が影響していて、兄と比較されても恥ずかしくない大学を選びました。
あと、高校時代に「周りに頭良い人が多い環境は面白い」と感じていたので、
とりあえず、高学歴な大学ならどこでもいいか、ぐらいテキトーに考えていたと思います。
大学入学後は、浪人時代にアニメと2chにどハマりしていた影響で、
「リア充、○ね!」みたいなよくわからん感情のもと、陽キャなイメージがあったサークルには一切入りませんでした。
てか、大学生のなんか陽キャなノリについていけませんでした…
あと、浪人していたこともあって、学年が一個下になったんですけど、
年下からタメ口で呼ばれるのは、まあ慣れたから大丈夫だったんですが、
同い年に敬語を使う、とかいう意味わからんことに耐えられなくて、先輩のいるサークルには入れませんでした。
とは言っても、大学4年間は学生寮に所属していたので、先輩後輩関係とかもあったんですが…
この学生寮は、とにかく楽しかった記憶があります。
何のサークルにも入ってなかったので、マジで友達は寮のメンバーだけでしたし(僕以外にも何人かノンサーがいた)、
寮で特に仲が良かったメンバーは今でもちょいちょい遊ぶ仲です。
隠居生活でどうなるかわかりませんが…
それから、大学時代はとにかく暇を持て余していたので、クロスバイクで都内を走り回ったり、
無意味に宇都宮や秩父までサイクリングしたりしてました(今考えると暇すぎる…)。
18きっぷなる便利なものもあったので、これで日本中の電車という電車を乗り継いで全然知らない街まで行ったり、
聖地巡礼がてら地方都市を巡ったりしてました。
そんなこんなもあって、次第に「街」に興味を持つようになり、大学でも街について研究を始めました。
「そういえば子供の頃によくシムシティやってたなぁ…」みたいな浅い自己分析も手伝って、
就活時は、「街づくりに関わる仕事」を漠然と探していました。
そこで出会ったのがデベロッパーという職業でした。
不動産の開発を行うっていうそのまんまの仕事で、「数ある仕事の中で一番興味あるのコレジャネ?」
といった何の根拠もない自己分析の元、そこそこの企業から内定を頂きました。
大手資本の優良企業でしたし、稼ぎも相当なものでした(これくらいの企業なら格好がつく、くらいのことも思ってました)。
私を買ってくれる先輩や上司もいて、ここで長く働くことが一般的には良かったのかもしれません。
しかし、仕事=金稼ぎ、みたいな文化や、金や女にだらしない風土に満足できず、徐々に転職を考えるようになりました。
そのころ、ソーシャルビジネスという、社会課題の解決を目的としたビジネスに興味を持ちました。
金銭的なリターンを目的とする株式会社に対して、社会的なリターンを目的としたソーシャルビジネスは、
「金儲けだけが全てじゃない!キリッ」みたいに考えていた当時の僕にとっては魅力的に映りました。
そこで、今度は業界でも有名なソーシャルベンチャーへ転職し、新たな一歩を踏み出しました。
しかし、そんなやり甲斐に満ちているように見えた仕事も、徐々に重荷になっていきます。
何がいけなかったんでしょうか?今でもよくわかりません。
社会的な意義の持てる仕事に興味がなかったのか、解決しようとする社会課題に当事者意識を持てなかったのか。
きっかけは、コロナ禍によって人との関わりが減ってしまったこと(だと思う)で、適応障害を患いました。
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なんか異常に長くなってきたので、一度ここで区切ります。
続きはまた明日にでも。それでは、また。
(この振り返り意味あるのだろうか…)
K
