「プリマバレリーナ・S・ザハロワのレッスン」
動画で「バヤデール」のリハーサルを観た。
正確なピルエット。
優雅なパンシェ。
彼女のテクニックは限りなく素晴らしい。
差し伸べた指の先には、空気が描く模様が見える。
ポアントのつま先の下には、波紋を描く水面が広がっている。
彼女がジュテで舞い上がる時、時間さえも止まってしまう。
音楽との融合は、観ている者の心を蕩かしてしまう。
けれど私が感じるのは、その素晴らしいテクニックの後ろにある努力。
観客の心に響く芸術を観せる、感動を共有する為に積み上げる努力。
彼女は身体表現を通じて、「自分の一部」を観客と分かち合う。
一瞬の動きに感情を込める為に費やされる訓練と節制を思う時、
「芸術」を味わう事が出来る「人間」という生き物に生まれた幸福を思う。
自宅に居ながらにして「芸術」を鑑賞出来る幸福と、芸術家達への感謝と畏敬の念に包まれる。
私が「高橋大輔」の演技から受け取るものも同じ。
助走の殆ど無い、振り付けの一部でしかないジャンプ。
時に戦慄すら感じる程深いエッジワーク。
複雑過ぎて「良く覚えられるものだ」と呆れる程のステップ。
そして、音楽そのものの表現。
なにより、観客と繋がろうとする感情の伝達。
彼が観せるものは「技」の披露ではなく「音楽を演じる」事なのだ。
現在の採点法では、それらは「時代遅れ」なのかもしれない。
凝った繋ぎも、繊細極まりない音楽表現も、
現行の採点では何ら「意味を持たない」のかもしれない。
けれど、高橋大輔は「自分のスタイル」を貫こうとする。
それは今時流行らない「職人気質(かたぎ)」なのかもしれない。
幅跳びジャンプと、とにかくクワドさえ跳べば点は貰えるのだから。
その試合のジャッジ、スペシャリストの「お好み」に合わせれば良いだけの事なのだから。
試合は国同士のパワーゲームが優先されるようになってしまったのだから。
では、高橋大輔は「点取り」演技をすべきなのだろうか?
彼もトップアスリート、勝ちたくない訳が無い。
チームにモロゾフ氏が参入した事により、
「これまで上手く行っていた戦略の破綻」を心配するファンは多い。
最終的には「決断を下すのは高橋大輔」。
自身にとって、長い現役生活の最後を「ああしておけば良かった」にはしないだろう。
そこで、ザハロワの話に戻る。
周囲は「結果」を先に考える。
「こうしておけば、こうなるであろう。」
だが、彼女が日々レッスンをする際に考える事は何だろう。
「どんな時も、最高の状態で踊る事が出来るように。」
これだけではないだろうか?
だから、私は高橋大輔の選択を信じている。
彼とチームの判断を信じている。
彼が、日々積み上げている「小さな努力」と「大きな努力」
あらゆる努力を信じている。
それは、直ぐに「結果」には結びつかないかもしれない。
彼が現役を引退後、何年も経ってから顕れるものかもしれない。
それでも私は構わない。
私は、高橋大輔のスケートが好きだから。
彼のスケートが「深まっていく」その先を観たい。
「究極のスケート」がどんなものかを、この目で観たい。