復活節第6主日礼拝

 

 
今週の御言葉

「主にとって

不可能なことがありましょうか。

来年の春、定めの時に、

わたしはあなたの所に帰ってきます。

そのときサラには男の子が

生れているでしょう」。
創世記18章14節

 
 
 聖書箇所
創世記18章9~15
 
メッセージ題
遥かなる先に大いなる恵みあり
 

 

 

 

 今日の18章にはこう記されています。

 「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、(1節)目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、(2節)言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。(3節)水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。」(4節)

 

 神さまがアブラハムのもとに現れたというのです。目を上げてみると、3人の訪問者がいたというのです。アブラハムは彼らを歓迎し、もてなしました。そのとき彼らのうちの一人が何とこんな事を言ったのです。「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。(10節)

 

 17章ではアブラムが99歳の時、神さまはこんな契約を結ぼうとされたのです。妻のサライから息子が生まれる。この子こそあなたを継ぐべきものであり、そこから国ができるほどの子孫が生まれる。そしてアブラムの名をアブラハム、妻サライの名をサラとされたのです。こんな歳で子どもなど生まれるわけがありません。彼には側室のハガルから生まれたイシマエルという息子がいます。アブラハムはこれに家督を譲らせてくれと願いました。アブラハムもサラも自分たちからの息子がいないことを受け入れているのです。絶望的な状態も長く続いて慣れっこになってしまったのです。既にイシマエルがいるのだから、この子でもういいと妥協しているのです。それは「神さま、あなたの言うことなんて信じられません」と本音では思っているのです。そんな不信仰なアブラハムに対して神さまは怒ることはせず、「だったらイシマエルも祝福する。だけどアブラハムを継ぐのはサラから生まれる息子イサクだ」ということをおっしゃられたのです。アブラハムにとっては信じ受け入れがたいことです。しかし彼がそう考えていたとしても神さまはアブラハムを召し、神さまが共にいる新しい希望の世界へと導こうとされたのです。そしてアブラハムは神さまとの契約を結び、そのしるしとして自分のもとにいる男全員で割礼を受けたのでした。

 

 アブラハムは神さまとこんな契約を結んでいました。でもやっぱり信じられないのです。いつまで経ってもその約束はかないません。そして「アブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた」(11節)からです。サラは笑ってこう言ったのです。「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。(12節)もうこんな歳になって子どもなんて望むことなど出来ません。そこには彼らからすれば期待して何度も裏切られてきた悔しさがにじんでいます。すると神さまはアブラハムに言われました。「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。(13節)主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。(14節)それを聞いたサラは怖くなったのです。そして打ち消して言ったのです。「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。(15節)

 

 天地を創造し今も支配し守っておられる神さまに不可能なことは無いのです。しかも私たちを罪から救い、命まで与えるために御子、主イエス・キリストの命でさえ十字架で犠牲とされたのです。神さまに不可能なことはありません。でも神さまに祈れば何でもかなえてもらえるということではありません。あくまで神さまによって約束されたことで不可能なものはないのです。御子であるイエスさまだってどうでしょう?十字架にかかる前、ゲッセマネの園での祈りで、受難、痛み、そして十字架にかかることを避けさせて下さるように願われました。しかしそれはかないませんでした。キリストは父の御心を受け入れ十字架にかかられたのです。でもそれによって神さまが人類になさって下さった最大の恵みがもたらされたのです。アブラハムにしても何の苦労も痛みもなしに待望の後継者の恵みが与えられ、それが後の国が出来るほどの子孫が与えられたことにつながったわけではありません。彼自身、その時まだ息子が与えられていない。いつ目的地に着くか分からない旅路を歩むという十字架をになわなければなりませんでした。神さまに不可能がないということは痛みも緊張も苦労もない楽なものではないのです。

 

 主の出現、三人の訪問者、これらとの対面によって息子が与えられるというメッセージを受けただけで、アブラハムは再び旅に出たのです。それは今までと変わらず厳しく辛い旅路であったでしょう。しかしただ神を信じて彼は歩き出したのです。アブラハムは信仰の父です。だけど不信仰なところもありました。正統的な息子がいないというウィークポイントを突かれた時、実は不信仰であったという本性が露(あらわ)になりました。それでも彼はやっぱり信仰の父なのです。なぜならそうであっても結局は神さまの言葉を信じ、受け入れて共に歩んで行ったからでした。欠けの多いアブラハムでしたが、それでも従う彼を神さまは守られ大いに祝福され、アブラハムの思いや想像を遥かに超える恵みを与えられたのでした。

 

 

 
 
※来週5月24日から教会での礼拝を再開します※