最近このアニメにハマっている
視聴3周目に突入した。
アニメにハマっているとなると、キャラがかっこいいとか萌えるとかそういう表層的な面かと思われるが違う。確かにこの物語りのアツさは語るまでもない。でもここで語るのはそれじゃない。
深く考えさせられてしまっている。
「学ぶ」ということについて前回『君たちはどう生きるか』を読んで私見を述べたが、この作品との共通点も多くあった。
このタイミングでこの二つの作品に偶然触れられたことをありがたく思う。それと同時に「知」に駆り立てられる焦燥感を与えてこられた被害者意識も感じている。
前置きはさておき、数々の名言があるこの作品の中で私の頭を占領したのは「タウマゼイン」という言葉の存在だ。
そもそもタウマゼインってなに?
「驚くこと」を意味するギリシア語。 特に哲学の動機を示す語としてしばしば引用される。 プラトンによれば「タウマゼインというパトス は愛知すなわち哲学の唯一の始りであり,哲学者に本来的に属すべきものである」とされ,アリストテレスも「人はタウマゼインによって哲学することを始める」と記している。
(コトバンクより)
私は長らく頭のビョーキだが、この「タウマゼイン」のせいだと思う。絶対にそう思う。
作中でこの言葉は学問においての探究の「きっかけ」として扱われるが、これを咀嚼した結果知識欲だけに収まらない悪魔のように感じた。
人をタイプで分類することは好ましいことではないが,私の経験知から、理系脳の人が起こすタウマゼインは外部のことがほとんどだと思う。疑問に思ったこと、それを実験、あるいは行動に起こしてして結果を出す。それで完結するはずだ。(理系の人のこと何も知らないからあくまでこれは想像です).
しかし文系脳の人は、研究の場面という例を挙げると、作品に心動かされ,この人の文献を漁ろう。この人は,こんな人生だったのか。対して私とどうだろう。共通点もあるし相違点もある。なんだか苦しくなる。あー!
もしくは日常を例に挙げる。映画を見ている場面でも、この作品の主人公はこんなに辛い生い立ちを…対して私は…と、フィクションの現実の境目が曖昧がちである。
研究手段としての「比較」がどうしても日常にも自然に溶け込んでいるのだ。
他の人は知らないが,私はそうだ。
私は先ほど、ブログを書くきっかけの気づきがあった。
市民権があって衣食住の安全が確保されてて音楽や芸術などのエンタテイメントを嗜むことができて才能を買ってくれる人、心から信頼できる友人がいるのに精神の病気であってたまるか
幸せすぎだろ
ええかげんにせえ
もうええわ
どうもありがとうございました
という気づきだ。
じゃあなんで幸福に感じられない日々を送っているのか?→文字にして頭を整理したくなった。
これがある種の「きっかけ」としてのタウマゼインかもしれない。
このブログで行った作業は自分の気づきの中の内訳なのであって探究の領域の遥外で、ただのぼやきだ。あえて論文で言うところの「はじめに」にも至らない独り言だ。
しかし、こういった些細な気づきと疑問から、過去を生きた人々の思想に触れ、この疑問についてどう思ってたのかいろんな人の思想を集め自分の考えと比較し、考え、まとめる。そこまでやると、こんなちっぽけなタウマゼインでも立派な学問になるような気がしなくもないような気がする…
そもそもタウマゼインを私の辞書に加えてくれたこの作品がなければ、徒然とはしているもののこの文字の連なりはこの世に誕生しなかった。神様,ありがとう。
でももう
疲れた
寝る
何書きたいのかわからなくなってきた
また明日もチ。みよう
終わります。
