地方のこと。









「地方の事」、といっても話はいっぱいあるし、また地方一般ということになると頑張っているところもあるらしいが、概して評判が良くない、と言わざるを得ない。  この道に全精力を費やしてきた自分にとって、これは実につらいことである.. 地方がもっとほめられたい。



さて、人のことはさておき地方人としての、自分の事を眺めてみよう。

考えてみると、学校を卒業、生意気にもけっこう猛烈なサラリーマンをやった。社内報、勤務、労災、を担当した。ところが、あっけなく、ほんの3年ばかりで辞めて、津山に帰ってしまった。


田舎に帰ってからは、農協の職員 〈後に、津山市農協の組合長になられた矢野公史氏) らの薫陶を受けた。農業に初の自分が、一時キュウリ生産者津山一(後にそう聞かされた。7畝とか)の名義人になった。)


キュウリはほとんど自然に曲がる習性があるのに、曲がったキューウリは、全くお金にならない。なぜ?味には関係ないよ。どうして? (このときの小さいが大きな疑問、不合理を、許せないと思った。後述。)


それから、こんどは、と言うよりほとんど同時に、司法書士の受験勉強を始め、27歳で合格、ほかの資格は、宅建主任、行政書士、防火管理士、浄化槽施工士などをクリヤーした。まず、司法書士に合格即開業し、翌年に結婚した。 


インフレで好景気のお陰で、また、当時余り若い司法書士がいなかったこともあったのだろう、仕事がわんさと来て、つづいてバブル期でまたまた増えた。特に米井事務長〈後の市議会議長)の能力が大きい。また当時から今もがんばっている前原事務長は事務所に来たときは大学卒業前だった。



そうこうしていたら、数年後のS,51年、ココが人生の大きな岐路になったと思う。偶然津山市長「戦」があり、S50年暮れから、急遽天下分け目の大決戦になった。そのとき事務局を頼まれたのが私だった。しばらく後、私の事務所の米井事務長がまた面白いことに出身地から押されて市議になり上手に桑山市政を支えた。 しかも偶然「市長桑山、議長米井」にもなった。



サテ前後したが、 そのS51年は、いわゆる保革一騎打ちの形になった。少し前までいわゆる社会党天下の津山であったし、其の前まで2人、社会党の市長、と社会党県議が続いて出ておられたのである。 



 津山の危機に臨み「活力と幸せ」を掲げた。市民大会を企画実行し、100円バッジを大量につくり、売り、且つ着けてもらった。家と車に,シールをはり、津山に活力と幸せを・・と誰もやらないことを考えてやり始めたら従前のやり方と違う、選挙は遊びごとではないと批判が出た。



こっちはうまくいくと確信し、やりがいをもってやっていたのに、少しおかしい批判をされたので頭にきて、やめさせてほしいといったものの、気を取り戻して,それこそ全身全霊を尽くした、良い思い出がある。



・・・それどころか、運命的な後日談がある。市長の対抗馬に当時の議長が出馬することになり、、「市長選挙において、市議会に欠員があると、市長選と市議会議員の欠員選挙〈補欠選挙)が同時選挙にしなければならない」(公職選挙法)との規定があることがとわかった。



が、反対しそうな人ばかりじゃないかみたいなことになったらしい。どうりで3人も名前がでているワイ。そうおもっていたら・・・



なんと、おお後になって、 担当していた市長後援会の中から急に桑山君市議補欠選挙に出てくれ、となった。私がそれを聞いたときは「昨日の会合で出てもらうことに決まった、やってくれ」と言うことだった。


(ところが我が身内が市長に障りが出ては。。。といい、結局市議会鶴声会の意見を聞いたりし、そこがだめというなら出ないと約束した。裏にこんなこともあった。)



軌道に乗るまでのことではあったが、好きでのぼせていろんな理想を提案し、最終的にはほとんど認めてくれたので、満足でうれしかった。その少し後だったので、ぎりぎりの日にちしかなかったが、うれしくて飛び乗った。


出馬のうわさとして、小さく新聞に出たときは、私の親父がビックリした。数少ない縁故の田外社長をたずね、はやくやめるように説得を頼んだ。後日、会社の前の喫茶 ひばり へ呼び出されたのだが、、今も忘れないのがあの開口一番である。


親父は本気で言うてきたが、どうもあんたを看ていても止めるような気がせん。どうじゃ?。。。。。と言う調子であった。こっちも嘘は言えないから、止めるわけにはいかないような気がしています

、みたいなことを言ったような気がする。〈もっとはっきり、やりたい、と言った様な気もする。)



つづく