文明と歴史(過去志向と未来志向) | 暇人の愚痴

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 進化が早すぎると、過去、古代に帰って(戻って)しまうという矛盾

 

 大きな世界的な時差、それを格差から分断へと変化させた現在の欧米などの(評論家などの)指摘は、20世紀ではまだ肯定的なものであった。平成で実際に起こったのは、それをはるかに超えた、世界的な大騒ぎ、再編であった。平和とは戦争しないことではなく、競争や対立の思考であり、けっして違いを悪と(悪用)したり、対立を否定したりすることではない。

 

 そもそも長い時間、時代の中で、軍事戦争ばかりを戦争として捉えると結局それが実際に起こるという構図を、いまだ評論家などは越えていない。今でも、日本も政治や文化、経済や情報などで世界中と戦争しており、同時に平和である。毎日争わず皆で暮らすという構図は、非常に子供っぽい理想論、発想である。

 

 僕のように朝鮮戦争やベトナム戦争などを経験してきた世代には、(軍事)戦争を外国の問題と捉える傾向がある。現在の日本が、軍事戦争を意識するか平和状態を意識するかは、大きな国家的課題、世界的問題でもあろう。僕らに必要なのは、その両方を科学的、社会的に、説明、意見を言う(持つ)ことが大事である。

 

 そもそも古代から文明や歴史を担い作ってきた家庭や家族、民意や主権などの過程を吹っ飛ばした90年代の思考から、国民個々の性別や収入の基本が崩壊した90年代の思考は、すべての面で、単なるインテリなどの古生古代への復帰、回帰に過ぎない。個人が変わっても、家庭や家族(世帯、民族の問題)などが変わらないと、本当の進化は来ない。

 

 経済的に男女や年齢などの桎梏による役割、収入のありかた、世帯や一家を誰が担うのかという問題を、国民個人が生きていくためだけの就職、収入に転化した平成の日本の志向は、人間関係を崩壊させるというマスコミやインテリの野望でしかない。健全な年齢配分や人口調整より、社会の大きさ、進化などに特化した最近の日本は、ロボット社会の先取りに過ぎない。

 

 少子高齢や横社会といった志向は、先進オンリーの欧州で既に失敗した思考である。それは途上中堅などの人口爆発によるグローバル化に対応するのに、自分たちは関係ないと言い張る一部の人の19世紀、20世紀の思考である。その反省を持たない、今から先進日本が始まるのだという志向のインテリには、そのことの怖さがわかっていない。

 

 一人で一人が暮らすという思考を疑問もなく言えるインテリは、思想上も生活上も人間関係、コミュニケーションを破壊してきた。もしそれをネット社会のせいであるなどと言う論理は、もはや小学生以下である。逆に言えば、それらを軽視してきた放置しされてきた高齢者なども、本当の責任はマスコミにあるのも残念な事実である。

 

 団体や組織がいけない、集合や集団で生きなければいけないという思考は、本当に自治の改革を経た経験を持つ日本人の平均的思考にも追いついていない。恋愛や妊娠、性交や結婚、育児や家事などを誰が担い実行していくのか、そのための社会資格や組織化さえ軽視し、家庭を持つ意味を深めないで浅くしてきた思考は、都市空洞化などにおいてあまりに重大な原因である。

 

 そもそも過去に拘る評論家やそれを未来だと言い張る放送局などは、調べる考える過程を持たず、世界、人間の社会というものは過去何千年、何万年の知識や苦労の結果であることを否定する。それを今の解決策はというのは分かりやすいかも知れないが、それだけでな解決しない世界志向、地球志向が足りていなかった反省をはっきり言わない。

 

 今のテレビなどの流行を、大きな声で騒ぐ(叫ぶ)一般人でない国民の皆さんは、古いも新しいもそれ以上の価値を持つことを知らせたい、広めたいのに、番組の台本は今時どこにでもあった(ような)話ばかり流そうとしている。それはテレビ文化が、特殊な世界から大衆的な社会に向かう準備(ロケ)が遅れたからである。

 

 地方の文化が世界から遅れていると感じられるのが怖かった東京は、やはり最初は大阪などを対象とすることも多かった。しかし本当の観光や文化というものは、(国際や国内戦争も含む)歴史の展開であり、共有するのは本当の日本の誇り、また当たり前であったということで、少し変わってきた。

 

 文化とはそれらを統括する行政や国家がまとめ外国と比較することで議論をすること自体が、文明である。もちろん、今は日本語を話すことが常識となりつつある外国人も、東京などが特に日本の京都などに関する視点は、歴史の浅い東京によっては難しかったようだが、寛容を含む日本(地方)の歴史の深さを知らないと恥ずかしいと、最近は挑戦する機運もあると聞いている。

 

 国内でも過疎化で移住を望むところも増え、さすがに機急に企業を誘致することの難しい現在でも、本当の日本の、国(民)主導を見て自分たちの地方を低く見た、金銭(経済)目的の甘さに気がついていくようだ。逆に言えば、日本の新しい技術や経済も、そういうところから変わっていく、発展していくことに気がつき始めている。

 

 新しい国は、古くからあった古さがあって成り立つというのは検眼だが、それを西欧や露中、米国などに遠慮した、最近の、平成の文化がなぜ思ったほど世界にうけなかったのかを、今から考えても遅くはないのだろうか。一極集中が困るのはそれ以外にも安保や平和作る起点がどこにあるのか、やっと気づいたようである。

 

 東京(や大阪)の普通がいかに凄いものであり、逆に地方の凄さに気がついたことは、本当に(日本の政治などを)変える必要や大事さを発見でき頑張れば、今の日本の定評を覆すことも可能ではない。しかし今のマスコミにその気が本気であるかどうかについては、残念ながら全力で信じるにはもう一息である。

 

 それは外国や外国人、外国文化などとどう付き合うべきか、今本当に外国人に教えられている現状である。大阪も大きく揺れる昨今、果たして地方(都市)の行政改革がどこを向いてどう動くのか、子供でも興味を持つ自力の意味を、尊大な姿勢を経て卑屈な自己尊敬から本当の謙譲という、文明の基礎に立ちもどり進めるべきだろう。

 

 世界では、欧州などの過去を未来として警戒し、自分たちの未来を先進の過去として捉える傾向も治まっていない。世界一律、先進を基準として考えると思っていた多くの日本の若者たちも、20世紀21世紀の世界の思想に、非欧州の機構が大きくなっていくことがようやく目に見える情勢にある。

 

 今まで野蛮だとか非文化だなどといわれていた多くの地球的国家や地域が、今主流となるという思想的変化も大きくなっている。現代的思想が中堅途上国中心になりつつある、その多くは時代的、時間的相違であり、国家などの地理的条件以前の問題思考であることが、世界の混乱を拡大した(変えた)。

 

 事実として捉える傾向が、本当の文化などの多様性を認める方向にいっていないのかもしれない。そのような画一的価値観で今も動く指導者も多く、また新しい画一化を求める国や指導層も多くなっている。しかし時代、時間的観念の普及や拡大が、世界の本当の姿を見る一つの起点となっていることも確かだと思われる。