鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)吾平山陵伝説地
通常は吾平山陵の前まで車で行けるのですが、
道路の舗装工事で通行止めだったので、この参道から向かっています。
吾平山陵は天孫 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の孫、
鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の御陵墓と伝えられています。
日本書紀に 「鸕鶿草葺不合尊は玉依姫を妃となし、
彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊(後の神武天皇)
をお生みになり、久しい後に西洲の宮におかくれになった。
それで、日向の吾平山陵(あひらやまのうえのみささぎ)に葬った」
と記されています。
古い文献には前方後円墳とありますが、
現在では、2基の円墳(高千穂11・12号古墳)と 考えられています。
この附近一帯には、
縄文時代後期の陣内遺跡をはじめ 円墳、横穴墓があります。
古くから神話の里 高千穂を代表する大切な御陵として祀られており、
毎年四月一日に祭典が行われています。
吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ)の伝承の地は南九州各地にあり、
宮内庁により鹿児島県鹿屋市吾平町上名字吾平山に治定されていますが、
日向国の人々からの反論が強く、 国学者や宮内庁の調査によって、
鵜戸神宮背後の速日峯山上が 「御陵墓伝説地 吾平山上陵」の参考地とされている。
また、ここ高千穂町の吾平山陵とする説もある。
宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井