媛社神社(七夕神社)

 

 

 

 

 

七夕神社は、正式名は媛社(ひめこそ)神社といい、
地元では「たなばたさん」とも呼ばれています。

 

牽 牛

 

織 姫

 

 

 

一の鳥居には「媛社神社」と書かれています。

 

 

二の鳥居の左側には「棚機(たなばた)神社」とあり、
右側には、「磐船神社」とあります。

 

磐船神社といえば大阪の磐船神社が有名ですね。
ニギハヤヒを祀る物部氏の神社です。

 

 

手水舎には、風鈴が飾られてます。

 

 

 

 

御祭神は、

媛社神(ひめこそしん)と、織女神(しょくじょしん)です。

 

媛社神は、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)、
織女神は、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)

といわれてます。

 

 

万幡豊秋津師比売命の別名

栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)

 

 

 

万幡豊秋津師比売命と天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)

の間に生まれたのが天火明命(饒速日尊)といわれてます。

 

別の説では、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の子

八王子(実在は五王子)の中の三男(実在では次男)が天忍穂耳命で、

四男(実在では三男)が饒速日尊といわれてます。

 

かつてこの筑後一帯は物部氏の本拠地で、

北九州の遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。

 

その中心地が高良大社のある高良山と推定されています。

 

ここに磐船神社と名付け、

物部氏の祖神である饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)を

祀ったと思われる。

 

江戸時代になり、ニギハヤヒを祀る神社に織女神が追祀され、

七夕神社として親しまれるようになったのでしょう。

 

 

由緒

神社の歴史は古く、和銅6年(713年)に
各国で作るように命じられた風土記(肥前国風土記)の中に

その由来が出てきます。

 

以来、1,300年にわたって、
地元の氏神として信仰されてきました。

 

肥前国風土記」より

 

山道(やまじ)川の西岸に荒ぶる神がいて、
道行く人の半分を殺していまった。

そこで荒ぶる神がどうして祟るのかそのわけを占うと、
「我が社を造って筑前の国 宗像郡の人珂是古(かぜこ)
 にわが社を祭らせよ。そうすれば、 凶暴な心はおこすまい。」

という結果がでた。

 

※珂是古とは、神主として指名を受ける人物。

   筑前国 宗像郡の出身で、祭祀に関係を持つ人であれば、

   宗像大社と関係のある人物と思われます。

そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、
珂是古はやがて幡(凧)を手に捧げもって祈り、
「神が私の祭祀を望むならば、この幡は風のまにまに
 飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」
といいました。

するとその幡は飛んで行き、御原郡の媛社の杜に落ち、
ふたたび飛んで山道川のほとりに戻ってきました。


珂是古はその夜、

機織りの道具に押さえつけられる夢を見ました。

これで神の場所と荒ぶる神が女神であると知り、
さっそく社を建てて祭った。


それから後には路行く人も殺されなくなった。
ここから、杜を姫社といい、いまは郷の名となった。

 

 

延喜式には、

小郡を含む筑後の国の朝廷への献上品は米と織物になっており、

この地方は織物がたいへん盛んであったことがうかがえます。

 

また、古来より織物に携わってきた人々は

棚機津女(たなばたつめ)という機織りの女神を信仰していました。

 

この棚機津女の信仰と7世紀に中国から伝わった
「牽牛・織姫」の物語がひとつになったのが七夕信仰と言われています。


また、宝満川を挟んでこの織姫をまつる七夕神社と相対して老松神社があり、

ここに、大正12年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。

 

天の川と同じく南北に流れる宝満川と
その両岸にまつられた織姫と牽牛(彦星)は、
天上の物語を地上に配した様になっています。

 

天満神社

 

 

 

 

 

 

ここは、平成25年に「恋人の聖地」に選定され、
縁結びスポットになってます。

 

 

七夕神社の夏祭りは、毎年8月7日に開催されています。

 

鎮座地

福岡県小郡市大崎1番地