さあ、立て続けに、いくわよ?


そんな、末っ子二人に心奪われながらも、やっぱりまさよし君に対する愛情は、ちっとも揺るいではいないようです。


前回の西武ドームでは結局真打ちに到達することなく、妄想が終わってしまったので、その反省を踏まえて今回は早めにアップしておこうかなと、思っております。


といいつつも、結局は、もう、何をどう形容していいのか、もはや分からない自分がいるのよ。


どうして、まさよしというこのおっさんに、これ程までに狂ってる自分がいるのか。もう、ほんとに分からないし、理解しよう、客観的になろうってことを、どうも最近は放棄している。あの人が、ステージに立ち、ギターを弾き、唄っている、ただそのことが、もう嬉しくて幸せで、たまらない。末っ子二人は、その意味で、まだまだだな。←なんでこんなに、偉そうなんだ?


例のギターインスト。会場で初めて出会ったまさ友さんに教えてもらったのよ。どうも、ジェフ・ベックの曲らしいんだけどね。オリジナルでは穴が空くほど見ている譜面台を、この曲の時にはまったく見てないのよ。曲の世界に入り込んでるのね。完全に、イっちゃってるわ。お客さんなんて、もう、そこには居ないんだろうな。ほんとに、幸せそうなあの表情を見てると、妬けちゃうのよ。ギターに。彼に抱えられて、奏でられるギターに、妬けてしまう。だけど、死ぬほど格好いい。もうね、ベタな形容詞しか見つからない。だって、格好いいんだもの。ステージに立ち、ギターを奏でるあの姿は、格好いい以外のなにものでもないわ。


自分のために、弾いてるんだろうな。そんな姿を見ることができるなんて、わたしゃ、ほんとに嬉しいよ。あ~、もう月並みな表現しか見つからない。コトバにすることが、出てくるコトバが、悔しいくらいに、しょうもないわ。


以前ね、コブクロファンの方とやり取りしてる時に、その人が「消費者としてしか関われないこと」に対する諦めと、コブクロにはそれを越えて参加できる「希望」みたいなことを書いていたのね。それを読んだ時に、私はぴんとこなかった。音楽を創り、奏でる立場ではない、オーディエンスの私たちに、消費する立場以上のものは、果たしてあるのかと。


最近、少しずつ考え方がまた変わってきた。それは、例のホカリさんのスネ毛を読んでから、ぼんやりと考えていたこと。


まさよし君の活動に、一人のファンでしかない私が関わっているとするならば。


私たちの彼の活動に対する「賛同」、なんか違うな、「支持」、これもなんか違う、「パトロネージ」、それも当たり前か、お金出してるんだものね。微々たるモノだけど。とにかく、彼の音楽のやり方に対する我々の反応が、彼がやりたい音楽、進んでいきたい道に、自信を与えている、確証を与えているんじゃないかって、ちょっとそんなことを感じてしまった。もちろん、彼がやることは、何でもOKってワケじゃないんだけど。お金を払ってライブに行く、CDやDVDを買うんだから、口うるさくアレコレといってるのは確かなんだけどね。


今のところは、まさよし君が打ち出す方向性と、ファンが望む、というか受け入れられる方向性が、ありがたいことに、ぼんやりながらも一致してる。あっちゃこっちゃ、はみ出してはいるけどね。そんな、幸せな、だけどちょっとハラハラする均衡関係は、あるんじゃないかな。それがあることを、ホカリさんのあの文章で感じた。実際にあるかどうかは別として、まさよし君サイド、少なくとも、ホカリさんには、今そんな状況が感じられていることは、確かなんじゃないかな。それが、私にはとても嬉しい。


そう感じた時に、コブクロを、ミノスケ社長を信じて付いていく、と言ったコブクロファンと、まさよし君を、ジャイアン社長を信じて付いていくと堂々と表明する私の間には、どんな違いがあるんだろうかと、また考えてしまう。


コブクロファンとして振り落とされてしまった、選別されてしまった悔しさに苛まれていた自分。でも、まさよし君の場合にも、そんな時はあったんだと思う。でも、自分は幸運なことに、振り落とされずに今まで聴き続けることができた。ただ、それだけの違いなんじゃないかとも、思う。振り落とされる、という言葉は悪いけれど、結局はコブクロの音楽に、それを乗り越えてまで引き寄せられる何かが、私の中にはなかっただけなのかもしれない。同じように、まさよし君から離れていったファンにも、まさよし君の音楽にそれだけのものを感じることができなかっただけなのかもしれない。


コブクロの音楽も、まさよし君の音楽も、その意味でやっぱり、「たかが音楽」


そのことを、忘れちゃいけない、と思いつつも、まさよし君に対しては、自分の中で一番の賞賛の言葉で形容しようと必死になっている私です。