アメマ(息抜き日記)
ここのブログって、「アメブロ」っていうようですが。
正式には「アメーバ・ブログ」なんですね。
でも、関西人の僕が「アメーバ」って聞くと、間寛平さんのギャグ「アメマ」を連想してしまいます(笑)。
そのギャグ「アメマ」には、有名なエピソードがあって。
要するに「アメマ・バッジ」の事なんですけど。
自分のギャグ「アメマ」が大ヒットしたのを受けて、「これで一儲けできるかもしれない」と根拠の無い確信をした間寛平さん。
早速「アメマ・バッジ」を作ったのでした。
その数、10万個!
でも、やはり全然売れず。
残ったのは、6千万の借金と在庫の山(苦笑)。
でも、こんな逸話も笑い話にしてしまえる間寛平さん。
素敵過ぎます♪
僕の中では、「嘆きのボイン」でおなじみの月亭可朝さんと同じくらい燦然と輝いてるお人です(^-^)。
ホンマにホンマでっせ~♪
パイオニアと二世タレント
(注:今回の日記は、某SNSに登録なさってない人にはあまり関係のない話です。どうぞ、スルーで・笑)
先日。
某SNSでの話です。
僕が作ったあるコミュニティの参加者さんから、「管理人さん、運営期間1000日突破、おめでとうございます!」というありがたいお言葉をいただきました。
某SNSに「コミュニティ機能」が追加されて間もない頃に、ちょっとした好奇心から作り始めた僕のコミュニティも・・・
「それだけの月日が流れていたのだなぁ」と人様から言われて、まるで人事のように今さらながら気付いたのでした(笑)。
" Community of the people, by the people, for the people"
僕は、あまり「マニュアル本」というものに興味がなくて。
その手のものを読む時間があれば、松本清張の『砂の器』でも読み返す方が楽しいと感じるタイプかもしれません。
星の数ほどあるコミュニティ。
その中には、今では10万人規模のところもあるようです。
でも、そういった大きくなっちゃったコミュニティの多くは、それだけトラブルなども起こりやすく、それが嫌なのかどうなのか分からないのですが・・・
最初にそのコミュニティを作成された人が、今も管理なさってるところは、数えるほどではないでしょうか。
僕は、たまに考えます。
最初にコミュニティを作成した人が、「パイオニア(先駆者)」であれば。
パイオニアが作って、大きくなっちゃったコミュニティの管理権を引き継ぎ、「二代目」「三代目」を襲名なさった管理人さんは・・・
どこか「二世タレント」に似てるかもしれないって。
「おいおい、空想kiss。ええかっこすんなよ!お前は、作ったコミュニティの一部がたまたま大きくなって、いい気になってるだけだろ!」
そんな声が聴こえてくるのは、僕の幻聴ですか?
そうですか(笑)。
いえいえ、実際。
こういった例え方って、子供じみてると思うでしょ。
なんせ、僕の好奇心は「赤ちゃん並み」だから(笑)。
ただ、ここで強調しておきたいのは、僕自身は・・・
決して「パイオニア」が優れていて、「二世タレント」はどうあがいても二番手などと考えてる訳ではないという事なんです。
「二世タレント」には、彼ら特有の苦労やしがらみがあると僕は考えます。
かなり努力して、いい結果を出しているにもかかわらず、ギャラリーからは「親の七光り」みたいに陰口を言われたりして。
一方、パイオニアが全ての面で優れているかといえば。
必ずしも、そうでもなくて。
例えば、若い頃に自分で会社を作って、ある程度成功させる力のある人によく見られる「共通の欠点」として・・・
「ワンマン」「自分ひとりの力で、ここまでやってきた」みたいな傲慢さ。
あるいは、柔軟性に欠けていて、時代に合わない「自分の持論」を押し通す人。
先駆者の中には、こういった性質を持つ人も、実は少なくないと思うのですよ。
その辺、「二世タレント」タイプの人は、実に器用に、謙虚に立ち回れたりする人も、結構多いような気がします。
でね。
元々の資質も影響されるかもしれませんが。
切磋琢磨して、いつの間にか「二世」なんて言われなくなっちゃう「二世タレント」さんも、いるんじゃないかな。
その辺は、この日記をご覧になられてる皆さんの「好み」や「センス」「価値観」などによって、かなりイメージされる人が異なってくるかと思いますが。
僕だったら。
藤山直美さんや寺尾聡さんのような人を、真っ先に連想します。
つまり、こういった人って、僕の中ではもうすでに「ほんまもん」なんですよ(偉そうですみません・笑)。
今では、そういった「ほんまもん」の著名人を見た年配の人が、若い世代の人に・・・
「あの人の親も、かなり有名な~で」
・・・みたいな事を言ってそうで。
「~の息子(娘)」から「あの人の親も」への変化。
すごく大きいと個人的には思うのですが、いかがなもんでございましょうか?(笑)
と、まぁ、こんな感じで。
自分の某SNSプロフィールには「数字の羅列が」「肩書きが」みたいに偉そうな事を書いてる割には・・・
こんな子供じみた日記を書いている訳で。
その辺が矛盾しているのかもしれないのですが。
そういう訳で、「ほんまもん」になっちゃった「二世タレント」さんには、心から尊敬してしまうのです。
← Everybody loves "某SNS " sometime ←
では、僕自身はどうかといえば。
やっぱり、「パイオニア」の方が楽しいのですよ!
「空想」するのが好きな僕ですが。
「空想」を「空想じゃないもの」に化学変化させるのも好きな空想kissでございます♪
子供じみてるでしょ(笑)。
「驕れるものは久しからず、只、春の夜の夢のごとし」
『宿命の裏にあるもの』
【きっかけ】
僕が、まだ東京にいた頃の話です。
今ではほとんど読みませんが、当時タレントさんが書いた本も結構目にしてました。
ダウンタウンの松本人志さんの『遺書』を読んだのも、その頃でした。
その中で、ダウンタウンが司会を務める番組において、ある元AV女優出身タレントのゲスト出演を断った話があって。
本によれば、彼女が番組に出演する条件として、「元AV」という事に一切触れないで欲しいなどとあれこれ注文されたため・・・
「それなら出てもらわなくても結構」と、ダウンタウン側が断ったそうです。
僕は、この本を読んで、その「元AV」の人が誰であるかはすぐに分かりました。
(※彼女がタレントに転向した当初は、あまり好きにはなれなかったのですが。今は、むしろ好きかもしれません)
でも、それが誰かという事よりも、その後にある松本さんの記述の方に注目していたのです。
(元AV出身タレントに対して)
過去があるから今の自分がある。
なぜそのように考える事ができないのか。
そんな君には、松本清張の『砂の器』をお薦めする。
『遺書』には、このように書かれてました。
この記述を見て、僕はたまらなく『砂の器』を読みたくなったのです(笑)。
このような形で紹介されてる『砂の器』って、一体どんな小説なんだろうって。
数年後、まず松本清張の原作本(上・下巻)を読み・・・
先日、ようやく映画版『砂の器』(1974年)を、レンタルDVDで観ました。
【映画】
映画『砂の器』
1974年制作、野村芳太郎監督、橋本忍、山田洋次脚本。
キャスト
今西栄太郎:丹波哲郎
和賀英良:加藤剛
三木謙一:緒形拳
吉村正:森田健作
高木理恵子:島田陽子
田所佐知子:山口果林
ひかり座の支配人:渥美清
捜査一課長:内藤武敏
捜査一係長:稲葉義男
安本:花沢徳衛
三森署署長:松本克平
本浦千代吉:加藤嘉
田所重喜:佐分利信
桐原小十郎:笠智衆
原作との大きな相違点は、原作では和賀が「電子音楽」で才能を発揮した新進気鋭の音楽家なのに対して、映画版では純音楽の天才音楽家として描かれてる点。
でも、逆に言えば、大きな違いはそのくらいで、映画の都合上原作より短くアレンジこそされているものの、かなり原作を尊重した形で映像化されていると感じました。
映画に関しては、いい意味で裏切られたと言っても過言ではないです(笑)。
中盤までは、ほぼ原作をなぞる感じで淡々とストーリーが進行するのですが・・・
終盤、クライマックスでは、この映画のために作られた交響曲「宿命」が流れる中・・・和賀の半生がほぼ台詞なしの状態で、生々しく描かれているのです。
僕は、すでにこの映画をご存知の方から何度も「クライマックスは泣いちゃうよ」などと言われていたのですが、それでも年甲斐もなく大粒の涙がこぼれ落ちてしまいました(笑)。
いや、決して安っぽい「お涙ちょうだい」映画ではないのですよ。
「お涙ちょうだい」じゃないから、逆に涙が溢れてしまったのです。
結局、カタルシスの世界なんじゃないかな。
この作品の魅力は。
登場人物も個性豊かです。
和賀の婚約者の父親。
田所重喜は、元大蔵省のエリート。
裏の世界、汚い世界を嫌というほど見てきたような鋭い眼光。
地獄の底から響くような低い声。
僕は、彼を見て昭和時代の某大物政治家を連想してしまいました(笑)。
(田所、煙草を銜えると和賀が火をつける)
田所重喜「出る杭は打たれる。必ず足を引っ張ろうとする者が出てくる。気をつけるんだね。誰が味方で誰が敵か分からん」
田所佐知子「パパ、政治家と芸術家の世界は違うわよ」
和賀英良「いや、同じ人間の世界だ。ただ一つ(政治の世界と)違うのは、我々はできた『作品』で評価が決まるのです」
その田所重喜の娘で、絵に描いたようなお嬢様。
和賀の婚約者でもある田所佐知子。
(和賀の仕事場で)
田所佐知子「私、あなたとなら幸せになれそうな気がするの」
和賀英良「幸せなんてものが、この世の中にあるのかい?元々そんなものはないのさ。ないから、みんながそんな影みたいなものを追ってるってね」
田所佐知子「それが『宿命』?」
和賀英良「もっともっと大きな強いものだ。つまり生まれてきた事。生きている事」
調べれば調べるほど、殺された動機が分からなくなるくらい「善良な市民」という言葉がピッタリの元巡査。
彼を知る人皆が、仏様のような人と呼んでいる三木謙一。
(京浜東北線蒲田駅近く・殺される直前の三木謙一、和賀に父親に会うように詰め寄る)
三木謙一「どうして?どうして父親に会わないんだよ!たった一人の、それもあんな思いまでして一緒に生きてきた親子じゃないか!」
旅先で川柳を詠むのが唯一の趣味というベテラン刑事、今西栄太郎。
やる気と行動力は誰にも負けない新米刑事、吉村正。
(逮捕状を手に、コンサート会場裏側から和賀の元へ向かう刑事二人)
吉村正「和賀は父親に会いたかったんでしょうね?」
今西栄太郎「そんな事は(会いたかったに)決まっとる!」
今西栄太郎は続ける・・・
「だが、もう彼は音楽の中でしか父親に会う事はできないんだ」
クライマックス。
和賀の半生が、静かに描かれます。
昭和17年。
ハンセン病を患って、村を追われる事になった父親に連れられて各地をさまよい歩く親子。
家の前で物乞いをすると、家主は扉をピシャッと閉めて露骨に拒絶。
「乞食は出て行け!」とばかりに親子を村から追い払う巡査。
「普通の子」たちにからかわれ、集団で殴られ蹴られる幼き日の和賀。
やっとの思いで息子を助けた千代吉。
しかし、今度は立ち去ろうとする二人に容赦なく石をぶつける村の子供たち。
そして、時は流れて。
戦時中の空襲で、和賀英良という全く別の人間に生まれ変わった千代吉の息子は、才能が認められ、約束された未来と幸運を手に入れたかのように見えたのですが・・・
かつて千代吉の息子に石をぶつけていた「普通の人」たちは、今・・・羨望と尊敬の眼差しで、コンサート会場の中央にいる和賀英良に拍手喝采を送っている。
しかし、和賀は間もなく「逮捕」という形で全てを失ってしまう事に、まだ気づいていなかったのです。
【映画を観終わって】
この映画とは全く関係がないのですが・・・
この映画の和賀を見て、ある犯罪者の台詞を連想しました。
「これまで全部うまくいっていたのに。これで終わりだ」
(佐藤宣行)
意外に思われる人もいらっしゃるかもしれませんが、僕自身は身近な人から何度か「お前は裏表が激しいところがあるから」と、冗談ぽく言われた事があります。
実は、これは結構当たっていて。
確かに、そういう部分は僕にあります。
でも、「裏表」といえば聞こえが悪いけれど。
誰でも、相手によって多少は顔を変えたり、誰にも言えない秘密の一つや二つはあるんじゃないかな。
小さな子供でも、親と友達の前では言葉遣いや態度が違ってるんじゃないかな。
ただ、その「顔の違い」や「秘密」が公に晒される事によって、大切な人やものを全て失ってしまう危険がある場合。
果たして人はどういう行動をとってしまうのか。
この映画を見終わって、そういう事が頭にぼんやり浮かんできたのです。
幼い頃。
僕はちょっと「早熟」だったので(笑)、家にあった『家庭の医学』みたいな分厚い本を、親の留守中に読んだりしていました。
何もHなところを読んでいたのではないんです。
「心理学」的な事が書いてあるページだったと思います。
それによると・・・
「幼い頃、極端に貧しくて苦労した子供の場合」
そういう子が「大人になって、せめて人並みの生活をしたいなぁ」と考えるのは、健全ですし自然な考えです。
でも、「大人になったら裕福で立派になって、自分を馬鹿にしたやつらを見返したい」
↓
このような考えに陥ると、人の心は歪み、いびつな人間になってしまいます。
・・・といったような事が書いてありました。
この映画を見て、人間の「裏表」「秘密」と同時に、幼い頃に読んだこの分厚い本の事まで思い出して、何とも言えない気持ちになったのです。
松本清張の作品は、推理小説と表現される事もあるようですが、実際には社会派サスペンスの要素が強く、個人的にはそれ以前に「人間ドラマ」だと思っています。
『砂の器』。
小説でも映画でも、秋だけでなく「春の夜長」にもいかがですか?