(やはり逃げよう…)
浩市は思った。
この旅館。
従業員全員がグルの可能性がある。
あんな化け物を飼っているくらいだ。
こいつら全員化け物に違いない。
浩市は怖くなった。
客たちの食器の引き下げの際、女将の初美を見たが、
女将はいつもと変わらぬにこやかな表情で接客していた。
あの女将は牛女の死体を見たはずだ。
そもそもあの牛女は女将が連れてきた化け物なのか?
あの化け物を娘のナミと信じているのか。
浩市は図りかねた。
浩市はしばし、女将の表情を観察していた。
(待てよ…)
ひょっとしたら、女将の方が化け物に操られていたのではないか?
なぜ牛女が突然死んだかはわからないが、そのせいで憑き物が落ちたのではないか?
浩市は混乱した。
■■
就寝時間になった。
布団を敷いた。
かといって眠る気にはなれなかった。
どうする?
寝静まったころを見計らって逃げ出すか?
どうする?
部屋の隅に鏡台があった。
大きな鏡が、浩市の青ざめた顔を映していた。
その鏡に…
ひっ…!
不意に女将の初美の顔が映し出された。
まるで猫のように、足音もたてず、浩市の部屋に入ってきたらしい。
『お、女将さん…!』
しっ…! と女将は人差し指を自分の唇に当て、にっと笑った。
赤く濡れた唇がてらてらと妖しく輝いていた。
女将は膝歩きで、すすと浩市のそばにすり寄る。
浩市は息がとまりそうだった。
『あ、あの…』
『浩ちゃん。今日は忙しかったでしょう。ご苦労様』
『い、いえ、あの…』
女将はすぅっと手を伸ばし、浩市の腕に手を添えた。
浩市の体に電気が走った。
まるでいきなり蛇が腕に這うようなおぞましさ。
冷たさ。
荒れた女将の手はスベスベした柔らかい女性のものとはほど遠く、ウロコが生えたようにガサガサしていた。
『疲れたでしょう。マッサージしてあげる』
ひっ…!
浩市は身がすくんだ。
『…い、いいです!そんな…女将さんにマッサージしてもらうだなんて…』
全身の筋肉が硬化したかのようにこわばった。
『あら、遠慮しなくていいのよ。私、マッサージ上手いのよ』
しゅるしゅると蛇のように女将は浩市の背中に回り込むと、浩市の肩に両手をかけた。
慣れた手つきで肩を揉む。
『ほうら。こんなにこってる。カチンコチン』
浩市は背筋を伸ばしていた。
(逃げるべきだった…)
浩市は激しく後悔した。
どうやってやり過ごす?
どうやって逃げる?
浩市は頭をめぐらせた。
まるで麻酔をかけられたように浩市の脳は痺れていた。
浩市は鏡台を見ていた。
怯えて青い顔の浩市。
勝ち誇ったようにニタニタ笑う女将。
その女将の顔が…
おお…!
なんだ女将の目。
こんな残忍な三白眼だったのか!
赤い唇から覗く長い犬歯。
こんなに長く鋭かったのか!
浩市の肩にかかる女将の指。
こんなに長く禍々しい爪だったのか?
女将の顔が徐々に浩市の顔に近づく。
『何を聞いたの?』
!
女将が耳元で囁いた。
ふうっ…
生臭い女将の息が浩市の耳にかかる。
浩市は頭がおかしくなりそうだった。
『さあ…お言い…』
女将はしわがれた声で言った。
『予言の内容を…』
鏡台に映る女将の顔は…
(鬼婆だ…!)
つづく。