男の流儀~人生の達人~-ファイル1031.jpg


(やはり逃げよう…)

浩市は思った。

この旅館。
従業員全員がグルの可能性がある。
あんな化け物を飼っているくらいだ。

こいつら全員化け物に違いない。

浩市は怖くなった。

客たちの食器の引き下げの際、女将の初美を見たが、
女将はいつもと変わらぬにこやかな表情で接客していた。
あの女将は牛女の死体を見たはずだ。

そもそもあの牛女は女将が連れてきた化け物なのか?
あの化け物を娘のナミと信じているのか。

浩市は図りかねた。

浩市はしばし、女将の表情を観察していた。

(待てよ…)

ひょっとしたら、女将の方が化け物に操られていたのではないか?

なぜ牛女が突然死んだかはわからないが、そのせいで憑き物が落ちたのではないか?

浩市は混乱した。

■■

就寝時間になった。

布団を敷いた。
かといって眠る気にはなれなかった。


どうする?

寝静まったころを見計らって逃げ出すか?

どうする?

部屋の隅に鏡台があった。
大きな鏡が、浩市の青ざめた顔を映していた。

その鏡に…

ひっ…!

不意に女将の初美の顔が映し出された。

まるで猫のように、足音もたてず、浩市の部屋に入ってきたらしい。

『お、女将さん…!』

しっ…! と女将は人差し指を自分の唇に当て、にっと笑った。

赤く濡れた唇がてらてらと妖しく輝いていた。

女将は膝歩きで、すすと浩市のそばにすり寄る。

浩市は息がとまりそうだった。

『あ、あの…』

『浩ちゃん。今日は忙しかったでしょう。ご苦労様』

『い、いえ、あの…』

女将はすぅっと手を伸ばし、浩市の腕に手を添えた。

浩市の体に電気が走った。

まるでいきなり蛇が腕に這うようなおぞましさ。

冷たさ。

荒れた女将の手はスベスベした柔らかい女性のものとはほど遠く、ウロコが生えたようにガサガサしていた。

『疲れたでしょう。マッサージしてあげる』

ひっ…!

浩市は身がすくんだ。

『…い、いいです!そんな…女将さんにマッサージしてもらうだなんて…』

全身の筋肉が硬化したかのようにこわばった。

『あら、遠慮しなくていいのよ。私、マッサージ上手いのよ』

しゅるしゅると蛇のように女将は浩市の背中に回り込むと、浩市の肩に両手をかけた。

慣れた手つきで肩を揉む。

『ほうら。こんなにこってる。カチンコチン』

浩市は背筋を伸ばしていた。

(逃げるべきだった…)

浩市は激しく後悔した。

どうやってやり過ごす?

どうやって逃げる?

浩市は頭をめぐらせた。
まるで麻酔をかけられたように浩市の脳は痺れていた。

浩市は鏡台を見ていた。

怯えて青い顔の浩市。
勝ち誇ったようにニタニタ笑う女将。

その女将の顔が…

おお…!

なんだ女将の目。

こんな残忍な三白眼だったのか!

赤い唇から覗く長い犬歯。

こんなに長く鋭かったのか!

浩市の肩にかかる女将の指。

こんなに長く禍々しい爪だったのか?

女将の顔が徐々に浩市の顔に近づく。

『何を聞いたの?』



女将が耳元で囁いた。

ふうっ…

生臭い女将の息が浩市の耳にかかる。

浩市は頭がおかしくなりそうだった。

『さあ…お言い…』

女将はしわがれた声で言った。

『予言の内容を…』

鏡台に映る女将の顔は…

(鬼婆だ…!)


つづく。