(件 くだん)
西日本、特に神戸に多く伝わる伝承の妖怪。
半身は人間。半身は牛の姿で現れる。
戦争や災害といった大事件を予言する。
その予言は正確で必ず起こる。
くだんは予言を行うとすぐに死んでしまう。
■■
私が神戸のM街にやって来たのは、街全体が黄砂にけぶる3月のころだった。
彼岸を過ぎたとはいえ、西風は身を切るように冷たく、薄手の春物のコートでは街中をさまようにも限度があった。
さんざん探しあぐねて足が疲労に悲鳴をあげ続けていたとき、いや、もうあきらめて今夜の宿を探そうかと考えていたころ…
その店は私の心中をあざ笑うかのように不意に現れた。
それは一軒の中国料理店だった。
『Gozu』
看板の上に牛の頭をあしらったネオンサインが灯っている。
これほどあからさまに挑発してくるとは思ってもみず、私は苦笑を禁じ得なかった。
店に入ると、それはとてもつつましい店構えで、カウンターに4人掛けのテーブルがニ卓のみ。
店主は店主で、客である私の姿を認めたものの、決して目を合わせようとはせず、何やらブツブツとつぶやいただけだった。
私の他に客は見当たらない。
私はカウンターに座った。
『頭爆牛肉』
私は覚えていた合い言葉を口にした。
『牛肉(ニュウロウ)?』
店主はピタリと作業中の手を止め、私の顔を見た。
『頭爆牛肉』
私は再び合い言葉を口にした。
はたから見れば、何やら中華料理をオーダーしたように見えるだろう。
『牛肉は扱ってないよ。お客さん』
店主はわずかに中国語の混じるアクセントの日本語で答えた。
『あんたが劉さんか?』
私は言った。
店主は半ば怒ったようにナタの形をした中華包丁で乱暴にまないたの上の鶏の頭を叩き切った。
『本来。中国料理で牛肉を扱ったものはない。知ってるかい。お客さん?』
劉と呼ばれた店主は白身を帯びた目で私を見た。
『牛肉を使った料理は香港人や朝鮮人。日本人が考えだしたものだ』
『知ってるよ…』
私は答えた。
深く前をあわせたコートを脱ぎもせず、私は切りだした。
私には時間がないのだ。
『予言が聞きたい』
私は言った。
『またつまらん奴がやって来た』
劉は興味なさげな表情で私を見た。
『誰から聞いたか知らないが、人間は知らない方が良い場合もある。明日のことなど分からないほうが良いのだ』
『時間がない』
私は言った。
『時間がないのだ』
私はコートの内ポケットから封帯のついたままの札たばを三つだした。
『300万だったね』
劉は口角を少し持ち上げ、ゆるりと包丁を持ち上げた。
その気になれば人間の首など切り落とすの朝飯前のように思えた。
『またハイエナが一匹やってきた。
血の匂いのするところ。かならずハイエナが現れる』
劉はあっさりと手を伸ばし、私の置いた札たばをつかんだ。
『くだんは二階にいる』
劉は言った。
■■
ギシギシと嫌な音を立てて階段がきしむ。
私は劉に言われた通り店の二階に上がった。
この上に私の忌まわしくも愛しき化け物が住まうのだ。
二階は貸し事務所のようなしつらえで、
応接用の椅子とテーブル。
東洋趣味の籐製のファニチャーで揃えられていた。
『くだん』はごく当たり前のように、籐のソファーに座っていた。
座っていた?
私はテーブルをはさんで『くだん』と対峙していた。
おぞましい光景だった。
くだんの容姿については十分にレクチャーを受けていた。
いや、受けていたつもりだった。
体の半身が人間。
半身が牛。
勝手に人間の体に牛の頭のついた化け物を想像していた。
だが実際の『くだん』は私の想像をはるかに越えていた。
『ようこそ…』
くだんはシニカルな笑みを浮かべて言った。
きれいに七三に分けて整髪料でなでつけた髪は理髪店のポスターを連想させる。
年で言うと30半ばくらいか…
顔つきは端正だが、ひとをバカにしたようなにやけた表情は不快である。
くだんは見透かした顔でヒヅメのついた前足で器用にタバコをはさみ、もう一方の前足で、これまた器用にライターを使いタバコに火をつけた。
うまそうに紫色の煙を吐き出しすと彼は言った。
『予言を聞きたいのかね…』
虫酸が走る光景だった。
くだんは完全に牛の体。
頭だけが人間の男の顔という化け物だったのである。
つづく。