油断した。

地下鉄の階段を降りていた田辺伸之はいきなり背後から忍び寄っていた人物に突き転がされた。

もんどりうって頭から落ちる。
とっさにとった受け身の態勢で階段を転がる。
数段転がった時点で背中をベタリとステップについた。
完全に天を向く。

伸之は階上の男を睨みつけた。
黒いコートにサングラスの男が伸之に人差し指をさしていた。
人差し指を銃に見立てて、サングラスの男は唇を『ばあん』と発砲音にみたて、ふざけて見せる。


警告。

伸之が身を起こすと男は消えた。

■■■

きよしこの夜…

午後9時。

ギデオン・ヨハネ会の白い教会はS町の住宅地にある。
商業地の光量だけは多いイルミネーションとは違い、落ち着いた白一色の清冽な光の束が建物を覆っている。
信者たちがたくさん集まっていた。
決して広いとはいえない庭園内にはキャンドルが灯され、子どもたちが教会の扉が開くのを待っていた。
みな静かに話している。

強面のする伸之はその場にはそぐわない。
所在なげにコートのポケットに手を入れていた。

どこからともなくきれいなソプラノの合唱が聞こえた。
オルガンの伴奏が追いかける。

賛美歌27番。

聞き慣れたクリスマスソングとは違い、厳かな、静粛な気分になる。

伸之は黙って聞いていた。
教会の扉が開いた。
神父の説教が始まるらしい。
子どもたちは教会の中に消えた。

伸之は黙ってその場に立ち尽くしていた。

俺はなぜこんなところへ来た?

伸之はコートのポケットから十字架のネックレスを取り出した。

あの娘のためか?

伸之はほくそ笑んだ。

(らしくもない)

十字架を握りしめる。

あんな小娘ひとりのために…

伸之はきびすを返した。

冷気が伸之の体をおし包んだ。

伸之は歩を速めた。

その時だ。
教会の扉が再び開かれた。
子どもたちが、大人たちが現れた。

厳かに、もの静かに行進している。
みな手に白いバラをいちりん胸のあたりに持っていた。

何が始まるのだ?

最後に年配の女性と神父が現れた。
女性は八つ切りのパネルを抱えていた。

遺影…?

一同は庭園内のバラの花壇のところに集まっていた。
寒空の中、オレンジのバラがいちりんだけ、申し訳ていどに咲いている。

「主よ…天におわします神よ、あなたの温かい手にふれ、いまひとりの御子をあなたのもとに送ります…」

遺影は花壇の中ほどの棚に置かれた。
集まったひとたちは次々にバラの花をおいてゆく。
きらびやかなプレゼント包装の箱もたくさんあった。

「主よ、御子の一番好きだったアンネのバラ園です。いま、ふたたび主のお力によって御子がやすらかに天に召されますように…アーメン」

伸之は凍りついていた。

奇跡は起こらなかった。

願いは叶わなかった。

伸之は十字架を握りしめた。その力は強く、震える手が肉を破り、十字架が深く食い込んだ。
足が震え始めた。
その場に立っておれず、膝をついてしまう。

自然に伸之の頬を涙が伝った。

泣くのは何十年ぶりだろう。
母親が死んだときも涙は不思議と出なかった。

伸之は声をあげて泣いた。
人々が解散し、神父が伸之の肩に手をおいていたようだが、最後は伸之ひとりになった。

目の見えない少女が密室で死の煙に巻かれて窒息する。

どれほど怖かっただろう。
どれほど悲しかったろう。

伸之は男泣きに泣いた。

遺影の中で、樫尾真沙美が天使の笑みを浮かべていた。

つづく。