「逃げろ!逃げてくれ!お願いだ!」

伸之は叫んだ。
それが叶わぬことだと百も承知している。

うがあああああああああああ!

伸之は拳でガラス窓を殴った。
力のつづく限り。
強化ガラスは枠のパテ部分をきしませながら大きくたわんだ。
関節の皮と肉が破れ鮮血が吹き出す。
足場のないその体勢では思うように力が出せない。

うおおおおお……おおおおおお!

それでもやめなかった。

「もうやめて! オジサン…! やめて!お願い!」

伸之のただならぬ気配に真沙美は察した。
閉じられた瞳から涙が次々と湧き出した。

「…お願い…もうやめて…」

濃密な毒煙が真沙美の背後に充満している。
悪魔の触手がじわじわと真沙美に迫りよっている。

「…もうやめて…オジサン……」

真沙美の美しい顔が苦悶にゆがんだ。
両手で顔を覆うとその場に泣き崩れた。

肩が震えている。
盲目の少女はとてもはかなく見えた。
そして、とてつもなくかけがえのない存在に思える。

「絶対に! 絶対に助けてやる! あきらめてたまるか!」

伸之はガラス窓に爪をたてた。

その手に真沙美は手のひらをぴたりと合わせた。
ふたりの手はガラスをはさんで重ねあわされた。
永遠とも思える時が流れる。

「…さようなら…オジサン…!」

泣きじゃくりながら真沙美は振り絞るような声で言った。

それが最後だった。

あっ!

伸之の爪先が滑った。
真沙美が…女神のように美しい真沙美の姿が突然、視界から 消えた。

■■■■

伸之は落下した。

そのスピードは僅か数秒。
視界が突然アイボリー色に包まれた。
ナイロンをすべるバサッという音に包まれる。
冷たい感触。
伸之はもがいた。
衝撃が伸之の記憶を飛ばした。
とっさに何が起きたのか把握出来ずにいた。

オレンジ色の救護服を着込んだ隊員たちが伸之を覗き込んでいる。
伸之は両脇から肩を担がれた。
伸之が落ちたのは地上にしかれたエアークッション型のバリュートだった。
屈強な隊員たちの手によって、伸之は移動させられていた。

「放せ…! もどらならければ…! 彼女が…!」

突然伸之の力が抜けた。
これが脱力感という奴である。
むなしく目的を達し得なかった無念さが、人間の無力さが虚脱状態を生む。
あたりはサイレン音と怒号。激しく点滅するライト。
喧騒が渦巻いていた。
伸之の視界の端に特徴的なライトグリーンのレクサスが留まっていた。

あれは…

伸之の意識は飛び始めていた。
天を仰いだ。
センタービルはおびただしあ黒煙に包まれていた。
そのあまりの大きさにただ圧倒されるしかなかった。

真沙美…!

生きていてくれ…!

もし世の中に奇跡というものがあるならば。

いつかどこかで…!

いつかどこかで…



つづく。