耳をつんざく轟音だった。
黒煙は渦を巻き、圧倒的な勢いで噴出した。
内部からの爆破だった。
驚きが悲鳴に変わるまでかなりの時間があったように思う。
それが事故ではなく、爆発であったことも驚きだが、平和慣れしたこの日本で、テロという非日常な出来事がすぐには受け入れられなかった。

田辺伸之は駆け出していた。

何が起こった?

容易ならざることが起こっていることはわかっていた。
空気が殺気立っている。
伸之はセンタービルの自動ドアが開くのももどかしく、力任せにドアをこじ開ける。

一階のホール内に人はまばらだった。

「病院は?! 病院は何階だ!?」

すぐそばにいたビジネスマンを捕まえて怒鳴った。
ビジネスマンは伸之の剣幕に声が出せず、フロアの表示板を指差す。

七階…

七階にクリニック関係が集中している。

伸之は激しくエレベーターのボタンを叩いた。
しかし。
24機ある搬機のボタンはいずれの表示も消えている。
緊急時にはエレベーターは運転を自動停止し、最寄りの階で止まる。
いずれの搬機も自動停止していた。

ちぃっ…

伸之は駆け出した。
階段を探す。

「ちょっとあなた!」

伸之の背後から青い制服を着たビルの警備員が声をかけた。

「緊急事態です。ビル内には入れません!」

「階段はどこだ!?」

「どこへ行くんですか?駄目です!至急避難してください」

「知り合いが上にいるんだ。階段はどこなんだ?」

「決まりです。避難してください!ビル内には入れません!」

「きさま!」

伸之はいきなり警備員の胸ぐらをつかんだ。

「俺の知り合いの身に何かあったら、俺は必ずお前を殺す。俺は本気だ…階段はどこだ?」

本物の迫力に警備員はたじろいだ。
そのままぺたんとと尻をつくと、階段の方向をしめす。

伸之は走りだした。
館内階段をかけあがる。

七階。

七階まで駆け上がる気だった。

二階。
三階。

避難する人が雪崩のように降って来る。伸之ひとりが人の流れに逆らっていた。
人をかき分け階段を登る。
もどかしい。

目の前の防火扉がスルスルと閉まっていくのが見える。

ちいいっ…!

わずかに開いている防火扉の隙間に滑り込んだ。

背後でぴしゃんとスチール製の重い扉が閉まる。

五階だった。

あと二階。

防火扉が作動したということはビル内で火災が起きているということだ。
このフロアはオフィス街であるようだった。
すでに避難したのか人はほとんどいない。
防火扉が作動したため、自然に残された人々は閉じ込められた格好になる。
災害事には下手に動かないほうが安全な場合が多い。
だがこれは並の災害ではない。
防火扉はめったに作動しないのだ。

きな臭い。

タバコで煙った部屋のように白くかすんで見える。

伸之は給湯室を見つけて飛び込んだ。
備え付けてあった布巾を水道の水で湿らしマスクのように目と鼻を覆う。
これをやるかやらないかで大きな差が出る。
ビル火災で焼け死ぬ人は少ない。
そのほとんどが煙に巻かれて死ぬ。
視界が閉ざされるし、呼吸困難になる。パニックになって冷静な対処が出来なくなる。
フロアには白っぽい煙りが入り込んでいた。

白い煙はそれほど怖くない。
せいぜい咳き込んで、行動を悪くするだけだ。

本当に怖いのは黒い煙だ。

有毒物質のほか、不完全燃焼による一酸化炭素を含んでいる。
一酸化炭素は呼吸器から入って血液のヘモグロビンに結びつく。
その速度は酸素がヘモグロビンに付着するスピードの数百倍。
黒い煙を吸い込んだ瞬間、たちまちに呼吸不能になり、酸素を供給できない脳は意識を失う。
煙に巻かれて死ぬというのはそういうことだ。

伸之は用心して進んだ。
残る手段は非常階段。
通常、赤い逆三角形の形で示されている。
窓の下に折り畳まれたラダーが隠されているのだ。
伸之は三角マークの窓を見つけると非常用のボックスから手オノを取り出す。
排煙ハッチを作動させ、手オノで窓を叩きわる。
冷たい空気が伸之の頬をなでた。
遠くでサイレン音が聞こえる。
伸之はためらわずに窓の外に出た。
センタービルの非常階段は折り畳み収納ではなく固定式だった。
エキスパンドメタルの階段に伸之は身を踊らせる。
六階にあがる。
七階。

七階…

(なんだこれは?!)

ラダーが途中で切れていた。
メンテナンス用の足場資材が山のように積まれている。
七階の非常口の窓にたどり着けない。

伸之の頭に血が登った。
これでは防火扉と停止したエレベーターに閉ざされた七階の人間は脱出出来ない。
まして目の不自由な女の子がこの邪魔な資材を避けて通れるわけもない。
健常な伸之ですら無理なのだ。

伸之はちょっと考えてから、手オノを足元に置くと、不安定なラダーからジャンプした。
七階の窓わくの出っ張りに指をかける。
そのまま懸垂の要領で体を持ち上げた。
七階へ上がった。

ビルの外がわからガラス越しに内部が見える。
歯科医にありそうな医療用のイスが見える。
ここは何科だ?

ひと気がない。

伸之は不安定なビルの窓枠を歩いた。
足を踏み外せば落下する。
お目当ての場所はここではない。
窓ガラスに身をぴったりつけて横歩きする。
ビルの周りをおよそ半周もする。
すでにこの階にひとは見えない。
避難が完了したか?

そうであってくれ。

(さようならオジサン…メリークリスマス)

あの娘の声が聞こえた気がした。

無事逃げてくれただろうか?
あの娘は目が見えない。
誰かが連れ出してくれなければ無理だ。

ドオン!

また大きな音がした。
伸之の頭の上にパラパラと何かが落ちてくる。
伸之は上を見上げた。
おびただしい量の黒煙がビルから噴出している。
熱気を感じた。
やはり火災がおきている。
伸之は進んだ。
ビルの角に来た。
自分も逃げなければ危ない。
構うものか。
長くない命だ。
ビルの北側にきた。

そこで伸之は目を疑った。

懸命に探し回っていたものが…

いや…

見つかってほしくなかった。
すでに逃げていて欲しかった。

いたのだ。

彼女が……

見えない目でしきりに空を探っている。

やはり逃げ遅れたのだ。

七階。

厚いガラス越しにビルの外と内。



ドゴオン!

ビルを揺るがす激しい爆発音が響いた。


つづく。