小船はなんとか中洲へ着いた。
風が強い。
聡子は背負っていた包みをおろした。
包みをほどく。
中から聡子の頭ほどもある餅を取り出した。
差し入れられた握り飯をこねて作った即席の餅である。
ごていねいに墨で目鼻を書き、人の頭に似せている。

「これをかわりに川に投げるの。身代わりのお餅よ」

「みがわり…」

お万阿はあきれた。

「神を、龍神様を欺くというのですか」

「そう。よく出来てるでしょう」

「おろかな…」

お万阿は目をつりあげた。

「龍神様が怒り狂います。おおくの民が命を落とします」

「そんなことありません!」

増水は時期がくれば自然におさまる。
台風や大雨による洪水にすぎないのだ。
この餅でかわりになれば誰も死ななくてすむ。

「いま、私が証明してみせます。この身代わりのお餅で川の洪水がおさまったら、生け贄になるの思いとどまってくれますか?」

「……」

「これで川の怒りは必ずおさまります」

「さとこ…」

お万阿は悲しげな顔をして涙をひとつぶ落とした。

「私は村の民と約束したのです。私は離縁された女。私の命でみな助かるのです。私は身を投げます」

「嫌!」

聡子は叫んだ。

「そんなことさせない!死んじゃ嫌だ!
誰も、誰も死んじゃ嫌だ!」

聡子の目から涙がボロボロとこぼれ落ちた。

脳裏にヒロミの笑顔が蘇った。
思い出の中のヒロミはいつも笑ってた。

ヒロミ…

ごめんね。

ごめんね。

もう誰も死なせない。
誰も…

「しんじゃ…死んじゃ、やだ…」

聡子は河原に崩れ落ちた。

「さとこ…」

聡子は声をあげて泣いた。
(死んじゃ やだ…)

小屋の戸が開いた。
ボロをまとった男がボサボサの頭をかきながら出てきた。

「なるほど。娘。いいことを言う。ワシもそう思うぞ」

男は恐らく浪人中の侍なのだろう。
聡子の傍らに座ると、ヒョイと餅を取り上げた。

「…あ」

「ふははは、こいつはよく出来ている。 これなら龍神も騙される」

「あなたは?」

侍は頭をかいた。
「こんな所にいい小屋があるので2~3日寝ていた。ワシのみるところ川は一両日中に水かさは減る。雨も降っておらんでな」

侍は立ち上がった。

お万阿に向かって。
「なあ、あんた。この川の神は良い神だ。この餅はあんただ。この餅でガマンするとよ」

侍は大声で笑うと、「せえの」と餅を川に向かって投げた。

ドボン…!

餅は川に飲み込まれた。

「これで良い。もうあんたは川に入る必要がなくなった」

「いけません!」

お万阿は叫んだ。

「龍神様!今、私の命を!」

「あっ!」

聡子が叫んだ。

「喝!」

侍がさらに大きな声を出した。

「その餅は村人たちが命を削って、苦労に苦労して作ったものだぞ!米のひとつぶひとつぶには神が宿っている!おのれ!その餅を無駄にする気か!」

侍の剣幕にお万阿は身を固くした。

「贄はもう放たれたのだ。お前はこの小屋に隠れておれ。のうえ坊主。そうだな。儀式は終わったな」

船頭の少年は侍に睨まれて、おもわず頷いた。

「ワシたちが証人じゃ。よいな」

■■■

お万阿が無事役目を果たした。
船頭の少年によって村人たちに伝えられた。
聡子の機転はどこかで聞いたことがある。と思われた読者も多いのではなかろうか。
「三国志」をお読みの方なら孔明が旅の途中、村人を救った話をご存知だろう。
川の神に生け贄に捧げられそうになった娘の身代わりに、小麦粉で皮を作り、肉を詰め、人の頭をかたどり川へ流す。
やがて洪水は収まるが、時がたったから自然におさまったのである。
この食べ物を饅頭という。
現在、我々が食べているマンジュウの元になったものである。

だが、読者よ。
心せよ。
このお万阿の話は史実なのだ。
悲しい後日談がある。

お万阿が死んだと思ったお付きの尼の少女たちは嘆き悲しんだ。
下はわずか十歳。上の子でも十六になるやならずの少女たちはお万阿の後を追い、次々に入水する。
加古川の濁流は容赦なく少女たちを飲み込んだ。
彼女たちが流された後には小さな子供用の数珠がひとつ残されていただけだという。


つづく。