今日の記事もまた 個人的な目覚めの体験を書いています。
ということで ご興味のない方は スルーしてね (*^o^*)/~



私達は全て たった一つの同じものから出来ている ということは 分かりましたが
それが 何なのか やっぱり 定かではありません。

三つ目の体験は 3ヵ月後くらいにやってきました。

シャマタ・ヴィパサナ瞑想のリトリートに 参加した時です。


一日目の 最初の瞑想
座って 早々に 無意識に 何かを批判している自分に ハタと気づきました。
これには 打ちのめされました。
ワンネスの体験をしたけれど 全く 変わってないのです。
悲しくて悲しくて 余りにも情けなくて 
私が悟るなんてことは無理だ ということが身に染みました。


ヤコブ(先生)は “我々自身であるスペース(空間)”という表現を使います。
それは 自分が感じていることと 同じなのか 確認するチャンスがありました。
 
色々と取り去った後の 物凄く基本的な 在るという感じ あるいは 気づき自体
その 何処だとは はっきりと 位置を指し示すことのできないもの
それが 彼の言っている スペース なのか? 
答は イエス


3日目には 長く座っている瞑想者が困らないようにと 出してくださる
心づくしの 消化にいい食事が 効きすぎ 
一日に何度も 夜中にまで トイレに行くはめになりました。(-。-;)


そして5日目
朝一番の瞑想で 不思議な経験が 起こりました。
どうして それと分かったのか 分かりませんが
原初の境地を知りたいと思っていると
大円鏡が (左でなく)右の心臓の所に入り 
その途端 ドクドクドクドクと大きな鼓動が起こり 収まりました。。゚(T^T)゚。
そして そこにある大円鏡を(気を感じるように)感じてみたのですが 何もありません。
 
何もないのだから 意味を与えても良い 自由なんだ と 今度は 笑いがこみ上げてきます。

その後 歩く瞑想に入ると 物凄くゆっくりで 赤ちゃんのような感じがします。
その1歩が 全く新鮮で ほおぉぉぉ~~~~ (と それだけ)
足の裏が床につくことを 初めて感じたようでした。


そして 朝食時 カルマリンポチェもダライラマも 無私(空)を現していると 感じ 
ひそかに 涙ぐみました。

朝食後の 一人の時間に
“今しか悟る時はないというけれど 一体 いつの今? 
 今の今お願いします。 
 とにかく“私”がなくなるのが悟りでも 喜ぶ人がいなくても お願いします!”
という 強い欲求が湧いてきました。

 

例えば 旦那とか子供たちとか 全てを完全に引き換えにしてでも
悟りが欲しい とは 正直な所 心のそこから願えませんが(^^;)
もし 今死ぬのだとしたら 欲しいものは やはり悟りです。

その後 一瞬 気づきの瞬間が訪れて  ほら これ  って声がしたのですが(^^;)
これってどれ? って言う状態で 分かりません。

このリトリートでは 基本的に 人と会話はしませんから
決まった瞑想の時間以外でも 
マインドフルといって 自分がやっていることに 注意を払うように 努めます。


そんなランチ後のお休み中
ふと ヤコブに 原初の境地を見せてもらおうかと思いました。
ゾクチェンでは 師が弟子に それを伝授します。
ヤコブは ゾクチェンの師ではありませんが 知っているはずです。
どうやって伝授されるのか それもはっきりとは知りません。
(というかこの時点では気づいてなかった)
でも 結局 私には そんな事を ヤコブに頼む勇気はありませんでした。
ちゃんと修行してるわけじゃなく 今から修行しよって思ってるわけでもありません。
通常は ちゃんとした 前行を踏んでから 師が準備が出来たと思う弟子に 伝えるものです。

仕方なく ただ そのまま じっとしていると
ふと ベランダのウインドチャイムが コーンって鳴って ハッとしました。
え? (さっきの気づきも これです。このなんでもない 気づき)


ええ~~~~~(これはまずい 急いで 自室に向かいます)

     これ? これ? それって これなの?

ええええ~~~~~~(音量マックス) + 茫然自失状態

……………



記事がアンマリにも長いので ちょっと ここで切ります。m(_ _ )m 申し訳ない。