おはようございます
先日、学校から帰ってすぐに近所のお友達の家に遊びに行った息子。
数分後、無言で帰ってきた彼は、涙目
どうした????
犬が・・・
オレが走って〇〇くんちに行ったら、庭に犬がおって・・・
それで、オレと犬と同時に気づいて、それで目が合って・・・
それでオレが走って逃げようとしたら「ワンっ」って追いかけてこようとして、それでもう必死に走って逃げてきた。
もう人生終わったと思った
えーーーーーん!!!!
・
・
・
これ、10歳の男子です。
そう、彼は犬が苦手。。。
まじで!?っていうリアクションをしてみせてくれました。
おもろかったーーー
〇〇くんちの犬は、小型犬で基本室内にいるし、たぶん繋いであったと思うんだけどね。
それを確認する余裕なんて、もちろんなかったよね。。
その後も夜9時位までドキドキしてたそうです
当然〇〇くんとの遊びの約束は無かったことになってました
…………………
そんな息子と私のお話です。
保育園に通っていた小さな息子と、会社員で働いていた私とのお話です。
風邪をこじらせ気管支炎というサイクルを繰り返し、3歳頃まで3度の入院をした息子。そして当時の私の在り方。
ここから学べること。
子供の病気をどう捉えるかという事。
私のどんな思考がどんな現実を創りだしていたかという事。
何に気づかなかったから、同じことを繰り返していたかという事。
10年近く前の私たち親子の噛み合わないやり取りについて書くことが、 何かしらになり得れば、あるいは何にもならなくても・・・・読んでいただければ幸いです
息子は1歳4ヶ月から保育園に行き始めました。
息子は、まだ小さかったし男の子だし、気管も弱くてすぐに風邪をひきました。
夜中に咳をし出すことも多くて・・・
「コホッ」と聞こえると、その時点から私の頭の中は、翌朝の段取りが廻り始めました。
そして、となりで眠る息子の小さな背中に向かって、
「どうか…ひどくなりませんように」「もう咳が出ませんように」と繰り返していました。
まぁ、たいてい朝までに良くなるなんてことはないので、 昨夜に考えた段取り通りのことを実行しました。
実家の母に電話をして状況説明、予約をとって小児科に連れて行き、 会社の始業時間がくると会社と上司に連絡をして「半休」を申し出る。
昼には母が来てくれるので、病院でもらった薬と息子を預けて出勤する。
そういう段取り。
そういうことはしょっちゅうあって、、、
風邪をこじらせると気管支炎になって入院。
RSウィルスが流行ったときにも漏れなくかかって、入院。
この時のことでよーく覚えていること。
宿泊の出張の予定と重なり、それに出かけようかどうしようかという事をすごーーく迷った末、出かけたという一連のこと。
この時の私がなぜ迷ったのかというと…
社会人として“どうすべきか”ということが分からなかったから。
社会人として“こうあるべき”という事を全うすることが、当時の私にとっては何よりも重要だったから。
命にかかわる状態でもないのに、
サポートしてくれる家族もいて何とかなるのに、
子供が入院したからって出張行かないって、どう評価されるの!?
そんな風に考えた。
母親としてどうしたいのか。
息子の病気が本当の意味で良くなるにはどうするのが最善か。
そういう考えはほとんどなかったということ。
会社という組織の中で期待に応えようとすること。
私の中で、これが本当に多くを占めていたんです。
そんな訳で、かかりつけの先生に言われるがままに、普段から予防に努めました。
これは、息子が元気な時も、かなり強めのお薬を常用するというもの。
それもこれも、保育園に行けなくなったら困るから。
もちろん、この時の先生の治療や指導があったから今の息子の健康もある。
方法はどうあれ、みんなが全力を尽くして小さな息子の健康を守ろうとした。
前提としてそれはある。
しかし一方で、選択肢は本当にはひとつではなかったのだろうと思う。色んな意味で。
息子が繰り返していた咳、気管支炎、風邪など・・・ これらの体調不良について。
まだ言葉もままならない小さな息子の「表現」として受け止めるという概念が、当時の私にはありませんでした。
咳=面倒なことの前兆 ⇒ はぁ…
咳などの症状に対して、面倒なものとして敵対するから、症状を消そうとする手段しか思いつかない。
そして、、、
「ひどくなりませんように」「もう咳がでませんように」
あの時の私が頭に巡らしていたこれらの考えは、祈りではなく“念”です。
息子の健康を祈るものでなくて、自分に影響してくる面倒さを避けようとするもの … 執着です。
念を送ると・・・
残念ながら「〇〇になりませんように」と願うその〇〇な状況の方を実現してしまう。
まったく意図してないんですけどね
でも思考はそっちに執着してるから。。。
思考は現実化するので、やはりそうなるんですね。
もし、咳とか風邪とか・・・ 現れているそれらの症状に敵対することなく、気づきやきっかけをもたらしてくれるものとして受け止める姿勢をもっていたら。
それは自分の都合に応じた「執着」とは違うので、思考の放つ意図も全く変わってきます。。
そして。。。
思考にも周波数がある。
そして、祈りと念とでは周波数は全く違います。
ということは、どんな事と同調するかも前者と後者で全く違ってくるんです。
それに伴って現実も変わる。
そして何より・・・
同じようなことを繰り返していることに対して、その根本的な原因に思いを至らせることをしていたら・・・・
私の行動は変わっていただろうし、調べたり学んだりして、もっと自発的な選択をしていたかもしれない。
我が子の身体や心にまつわる不調でさえ、、、
そこから何に気づき、何を学んでいくかということが、子供自身だけでなく私たち親の人生だって動かしていくきっかけになる。
息子が不調を繰り返していたその渦中では、私はその視点を持っていませんでした。
だから繰り返した・・・
その後、別のきっかけで、ヨガを学ぶようになり、アロマを知り・・・
当時の私は全く知らなかった身体、心、思考についての理解を得ました。
病気の捉え方、対処の仕方も新たな知恵を得ました。
息子も年齢を重ねて、体力や免疫力が向上したのも、ちょうど時を同じくしました。
喘息予備軍といわれていた息子からは、
いつの間にかその片鱗さえも消えていました。
毎晩の予防薬もいつの間にか使わなくなっていました。
病気もほとんどしなくなりました。
たとえ咳とか風邪とか熱とか・・何らかの不調が現れたとしても、
息子が健康を取り戻す為の最善の方法について、あらゆる角度からとらえて実施できるようになりました。
いちばん伝えたいこと。
今だからそう思えるのですが、 きっとあの時、私は私の生き方、在り方を問われていたのかもしれません。
何か大切なことを忘れていたり
必要以上に執着している価値観があった。
そして、日常の色んなことに対して、ひとつの基準でしか計れなくなっていた。
だから、何度も何度も問いかけられていたんだ。
もしその何度目かに、小さな息子の気持ちに寄り添う方の在り方を勇気をもって選択していたら・・・
事態は変わっていただろうと思う。
………………………
●お母さんの取り組みが息子さん(中学生)に変化をもたらした方のエピソード