満月の夕に祈りを込めて | free soul messenger Kuu

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私から生まれた唄による
“空間の調律”

ガイド(守護霊)からのメッセージを伝える
“魂の鳴る方へ”

をしています

夢を見た。


山の中にある砂利道を、犬を連れて散歩している女性。

風に吹かれて、桜がもう散りかけてる。


『今年は桜が咲くのが早かったな…』


空き家みたいになった実家の中を歩いてたら、突然、ドーンッ!!と床が跳ね上がって、私はそのまま3秒間、ゆっくりと宙に浮いて、ふわりと着地した。


地震だった。

陸も川もひどい事態になって、目が覚めた。


起きてから娘に話したら「今日が阪神淡路大震災の日だからじゃないの?」と言われた。


『そうか…、…ごめんなさい。』


腑に落ちたのと、忘れていた自分を悔いて、被災地へ謝った。


去年知った曲、満月の夕のカバー曲が、朝のきりたんぽFMで流れていた。


この曲の歌詞に、とても考えさせられるところがある。

(あくまでこれは私の考えです。)


「飼い主をなくした柴が 同胞とじゃれながら車道を往く
解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕(ゆうべ)」


サビの歌詞では

「ヤサホーヤ うたがきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て いのちで笑え 満月の夕」


この子(柴)のところは

「解き放たれ全てを笑う」

になっているのだ。そして思った。


この子は見える鎖、もしかしたら見えない鎖にも、縛られていた生活だったのかもしれない。もしかしたら、飼い主に虐められていたのかもしれない。

そしてそれは、この子だけでなく、そう感じていた人間も、ゼロではないかもしれない…と。


誤解を恐れずに言うのなら、見える鎖、見えない鎖にもがきながら生きていた毎日に、震災という不可抗力の出来事によって解放された命が、少なからず、あったのではないだろうか。

そんな毎日を送っている命を考えると切なくなるけれど、残酷だけれど、その可能性はゼロではなかったのではないか。

それを歌詞の中で、この子(柴)に代弁してもらっているのではないか、と感じたのだ。


そんな命があっていいわけがない。


けれど、人間が残酷なのも、知ってしまった。

こんなに愛しいのに、大切なのに、傷つけることを止められない人間が存在し続けているのも事実だ。


失ったことで『解き放つしかない、解き放て』と心に言い聞かせ前を向こうとする命、逆に解き放たれて自由になれた命も、同じ大地の上ですれ違い、明日へ向かっていったのだろうと思えてならない。


誰かが星になる時、その割合は違いはあれど、ある人は悲しくて、ある人は嬉しくて、またある人は、どうでもいいと感じるだろう。

私がこの人生を終える時も、きっとそう。


だから私は、私を大切にしてくれる人を、大切にしたい。

私が傷ついたり、病気になったり、トラブルがあった時、喜んだり無関心な人とは、優しい距離を置いておいておくだけ。

この人生の命が、いつまでここにいられるかは、誰にもわからないから。


【愛してる】を歌い、伝えて、生きる。


今日も生きる命へ、命を見守る魂へ、敬意と心を添えて。



↓満月の夕を歌いました🌕


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