神様が全てを決めるのだから、全てを委ねるのが幸せ | うさこ

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[Ameba登録は、2016年4月18日から開始]

 1つ前の自分のブログは、他の人が書いたリブログなんだけど…


 あれから、色々考えてみたけど、リブログしたブログは、スピリチュアルな観点から書かれてるよね。


 目指すものは、同じかもしれないけど、スピリチュアルとか量子論とか、自己啓発は、自力だと思う。

 

 自力で、どうやったら、こうなるよみたいな…


 他力でも、神様から、こうやったらいいよって、メッセージが降りてきて解決することもあるけど…


 他力の代表的なものは、宗教に入って、指導されることだけど。宗教にも、自力と他力があるからね。


 自力だと自己啓発だけど、他力だと全てそのままの自分を委ねて、自分が足りない部分は、神様が支えて補ってくれると信じることだ。


 自力が悪くて、他力が良いわけでもなく、他力が悪くて、自力が良いわけでもないと思う。


 例えば、良い方法や良い話を聞いても、自然に模倣?出来る人も、出来ない人もいるわけで。


 私は、自力なのか、他力なのか、考えてみたけど、 

発達障害者だし、年齢的にも60代で足腰悪いし、持病もあって、もう、働けなくて、年金暮らしである。


 肉体的にも、まだ、元気な人もいるかもしれないが、実際にボランティアしようとしても、歩く事も出来なくなって、自宅療養してる。


 自己啓発の場合、発達障害というだけで、健常者よりその道は、難しくなる。


 人には、それぞれ出来る事と出来ない事、得意な事と不得意な事がある。何で出来ますという人も稀にいるかもしれないが…


 でも、その何で出来ますの人が居たとしても、それは、ご自身が頑張ったとは思いますけど、その頑張れる力を与えて下さったのは、万物の創造主である神様です。


 私の出発は、13才から西洋錬金術と西洋占星術が出発点なので、どちらかと言えば、自力が強かったと思います。


 霊感も幼児期からあったので、見えない世界が見てたり、導きがあったりもしましたが…


 13才からプロテスタントのミッションスクールに8年間通い、相対するものを二足のわらじでやってきました。


【わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

(コリントの信徒への手紙 一 3章6節)】


↑前回のブログと添付されてたyoutubeを見て凄いなあと思ったけど、やっぱり、何か違和感があって、自力で出来る人と出来ない人がいると…


 スピリチュアルだと整ってるか、整ってないかになると思うけど。


 整うことが出来たのは、自分が努力しただけではないと思うから。


 整ってない人は、努力してない場合もあるけど、努力しても出来ない場合もある。


 簡単に何でもこなしてしまう人と、そうでない人もいる。


 それと整うのが目的でもないと思う。整いたい気持ちはわかるけど。


 カトリック的に言えば、何でも出来る人と少ししか出来ない人がいて、どっちが尊いかとか、価値があるとかなく、強い人、弱い人って言い換えてもいいかもしれないけど、人の目から見た価値ではなく、強い人は、弱い人に寄り添って、助けてあげるのが、神様の御旨(みむね)だと思う。


 親切心でも、相手を変えてあげようは、違うと思うから。↓下の貼付けは、さっきの聖書の箇所を説明したものを探して見つけたものだけど、


 神様が人を通して、示してくれる事も確かにあるから。でも、それを知らされた人が、成長する時期とかは、神様が決める事で、仲介者の人でも、本人の努力だけでも、事は動かない事もあると思う。



↑この聖書の箇所の解説文を探したら、なんとヒットしたのは、私の母校と関係ある幼稚園だった。


 それも、神様のお計らいかなと思った。神様に感謝!


 若い頃の私なら、自力で、頑張って空回りしてたことだろう。


 今は、頑張っても、何も、進まなかっても、神様に失望したりもなくて、そういう時期なんだと思うようになりつつある(笑)


 最終的には、神様がなさることだから、委ねて良いだろうと、混乱することがあっても、信じている。


 カトリックに戻って良かったと思う。教会ではなく、カトリックの神様にだけど。