「宮本武蔵」や「太閤記」「新・平家物語」など、およ
そ80の長編と180の短編を書き上げた国民的作家・
吉川英治。(1892~1962)。
本名は英次といい、「吉川英治」はペンネームなのだが
「次」が「治」になったのは、誤植が原因だった。
大正11年、「東京毎夕新聞」に勤務していた吉川英治
は会社からの命令により「親鸞記」という小説を紙面に
連載。このときは無記名だったのだが、翌年単行本にな
る際、本の宣伝のための新聞広告で本名の「英次」が「
英治」と誤植されてしまったのだ。
それで、彼はどうしたかというと、こちらの方がすわり
がよいということで、そのまま「英治」をペンネームに
してしまったのである。
だが、この後、吉川はこの「ペンネーム」をすぐに使っ
たわけではなく、別のペンネームを用いていた。
吉川英治記念館の片岡元雄氏によれば、大正13年だけ
で17のペンネームを使用していたという。
吉川白波・雪屋紺之介・望月十三七・橘八郎・柳鸞一・
不語仙亭・玉虫裏葉・杉田玄八・中條仙太郎・杉村亭々
・朝山季四・寺島語堂・大貫一郎・木戸髭風・吉川英路
・来栖凡平。以上が、数々のペンネームだ。
そして、大正14年、講談社が社運をかけて創刊した雑
誌「キング」に吉川は「剣難女難」という作品を連載。
このとき、担当の編集者から、本格的に長編作品に挑む
には匿名ではなく本名を名乗るべきだと忠告され、これ
に対しあえて名乗ったのが「吉川英治」だったのである。
さらにそれ以降も、売れっ子作家だった吉川は、一度に
同じ雑誌に連載を持つことになってしまったときは、「
吉川英治」以外のペンネーム(浜帆一)を用いて活動を
続けることもあった。