▶「UWF完全崩壊の真実」レビュー8・高田延彦/宮戸クーデター/前田“解散”宣言まで | ぐーすけとりきのブログ

ぐーすけとりきのブログ

ブログの説明を入力します。

ついに、というか、おっとり刀で高田延彦の登場である。「泣き
虫」以来ののインタビューと言っていいだろう。前田発言が、数
多くのメディアを彩ってきたが、高田の発言は、ついぞ出ること
がなかった。「UWF“証言”」シリーズの締めを飾るのに相応
しい、選択である。(ああ、KAMINOGEでちょろっと出たことあっ
たね、失礼)

1962年、神奈川県生まれ。80年、新日本プロレスへ入団。
84年に第一次UWFに移籍するも、活動停止後の86年から新
日本に再参戦。前田日明の解雇により、88年、前田、山崎一夫
らとともに新生UWFを設立。大きなムーブメントを引き起こし
たが、フロント、選手間の不和などが原因で新生UWFは解散。
91年にリングス、藤原組、UWFインターナショナルに分裂。
高田はUインターのエース兼社長に。“プロレス最強”を掲げ
躍進するも、96年12月にUインターは解散。97年、98年
の2度にわたりヒクソン・グレイシーとPRIDEのリングで対
戦。2002年、PRIDE23の田村潔司戦で現役引退。現在
はRIZINの統括本部長として大会を牽引。

「私はデビュー以来、プロレスラーとしていろんな葛藤を抱えて
たんだけど、それを薄めてくれるような、プロレスラーとしての
気構え、プライドのようなものを植え付けてくれたのは、紛れも
なくユニバーサルに移った先輩たちだったんです。それは道場の
稽古であったり、愛の鞭であったり、酒を飲んだ時の会話であっ
たり。

なにより、強くなるためにスパーリングで自分を痛めつけてくれ
たのは、あの人たちだった。レスラーとしての骨格をつくってく
れる人たちが目の前から突然いなくなったら、明日から、誰とど
んな練習をすればいいんだと。そう考えたら、選択肢は一つしか
なかった」

ダイナマイト・キッドとのタイトルマッチ、猪木の強い期待を振
りきって、84年6月25日、高田は住み慣れた思い出深い新日
本プロレス合宿所をあとにした。

「ユニバーサルに移籍する時、まだ入門したての橋本真也を誘っ
たの。『巨人の星』の伴宙太に似ていたから“伴宙太”って呼ん
でてね。私が道場を出るため、レンタルでトラックを借りてきた
時、荷積みから荷降ろしまで手伝ってくれたのも彼。

橋本自身、ユニバーサルに一緒に来たい気持ちはあったみたいだ
けど、彼はもともと高校時代の恩師を通じて新日本に入って、岐
阜の地元から“いつか故郷に錦を飾れよ”って送り出された人間
だから。入門したばかりで団体を移るのは、応援してくれた地元
の人を裏切ることになる、と。『だから本当は行きたい気持ちが
あるんですが、今回は辞退させていただきます』っていうことを
真摯に言ってきたのをよく覚えている」

ユニバーサルの興行は“聖地”後楽園ホールこそ満員の観客を集
めていたが、地方に行くと会場に閑古鳥が鳴いていた。高田の移
籍から半年もたたないうちに、給料の遅配も始まっていたのだ。

それでもなんとか年を越したユニバーサルに、85年2月、ビッ
グニュースが舞い込んだ。協栄ボクシングジムの金平正紀会長の
紹介で、『海外タイムス』という新聞社のスポンサードを受けら
れることとなったのだ。

「『海外タイムス』っていうスポンサーがつくという情報が入っ
てきてから、景気のいい話が次々出てきた。『給料は5倍になっ
て、他のプロスポーツに負けないものになるぞ』なんて言われた
り、驚いたのは、東京のど真ん中にユニバーサルび専用会場“U
WFドーム”をつくるっていうんだもの。UWFドームだよ?こ
なメンバーで。しかも選手10人しかいないんだよ」

景気づけのグアム合宿から帰国後、ユニバーサルは再びどん底に
突き落とされる。スポンサーの『海外タイムス』は昭和史に残る
巨額詐欺事件を起こした豊田商事の子会社だったのだ。

そして6月18日、豊田商事の永野一男会長が暴漢に襲われ死亡。
これによって、ユニバーサルは救世主と思われたスポンサーを失
い、さらにテレビ東京『世界のプロレス』枠でようやく始まった
テレビ放送もわずか2回で打ち切りとなった。

ユニバーサルが興行機能を失った後、上がるリングがなくなった
選手たちは、生きるための苦渋の選択として、古巣・新日本に闘
いの場を求めた。そして86年1月シリーズから正式に新日本に
参戦する。

新日本の頃は本当に面白かった。しかし、これについては巷で多
く語られているので割愛する。

87年11月19日、後楽園ホールで行われた、前田日明&木戸
修&高田延彦vs長州力&マサ斎藤&ヒロ斎藤の6人タッグマッチ。
この試合中、前田が背後から長州の顔面を蹴り上げ、長州は眼窩
低骨折の重傷を負ってしまう。

前田は解雇され、新日本に残った高田たちは、新日本との契約更
改に臨むかどうか、岐路に立たされることになる。

「あの時、新日本を出て、新生UWFをつくった理由は簡単。そ
れまでUWFは会社として新日本と契約していたんだけど、あの
顔面蹴りがあった試合の後、必要な選手だけの一本釣りが始まっ
た。

また、控え室もそれまでUWFだけの控え室があったのに、あれ
以降、新日本と一緒になっちゃった。そしたら、ちょうど冬だっ
たんで、控え室の真ん中にだるまストーブがあってね。その周り
をベテランレスラーが独占しているわけ。新日本の控え室に入っ
たのは新人の時以来だったけど、あの頃と風景がまったく変わっ
てない。私が新弟子の頃、いつも見ていた光景が、いままた目の
前に広がっている。年功序列という変わらぬ崩せない壁とでも言
うのかな。

私たちだって寒いから、ストーブにあたりたいけど、ベテランさ
んたちと一緒にあそこに入ったら終わりだなと直感した。ユニ
バーサルで学んだ苦労が台無しになっちゃう。昔と同じ環境に逆
戻りだと思った。

それなら、こっちはこっちで、一本釣りなどに乗らず、たとえ失
敗してもいいから、自分たちのやりたいことをやって勝負しよう
と。

よしっ、前田さんが解雇になるんだったら、最後の大勝負をやろ
うよと。それで安生をはじめ若い仲間にも『どうだ、一緒にやら
ないか?』と声をかけたの」

しかし、その新生UWFは、あっけなく消滅してしまう。

選手と神社長らフロント陣との対立が表面化し、90年12月1
日の松本大会をもって新生UWFは活動を停止。同月7日、神社
長は所属全選手を解雇し自身のプロレス界撤退を発表した。そし
て選手たちは、新体制でUWFを再スタートさせることを表明し
ていたが、年が明け、91年1月7日に前田邸で行われた選手会
議で紛糾。激昂した前田が突如「解散」を宣言したことで、空中
分解してしまったのだ。

「あの時は、ここまで頑張ってきたんだから、また全員でやって
いこうという気持ちしかなかった。でもあの場で、若い選手たち
がこんなにも不満を抱いていたんだと知って、驚いた。しかも、
反発したのがユニバーサル時代から苦楽をともにし、一緒にやっ
てきた、安生と宮戸だったから、本当に驚いた」

この時点での描写を、『泣き虫』ではこう表現している。

「安生と宮戸が言い出したんですよ。『ぼくらも今日は言わせて
もらいますけど』って。もうその瞬間、ぼくはびっくりです。だ
って前田さんと宮戸じゃあ、経験にしても実績にしても、天と地
ぐらいの開きがあるわけですよ。おいおい、いったいお前はなに
を言い出すんだって」

この選手会議の中で、前田がUWFを今後も続けるうえで「俺の
ことが信用できるか?」と各選手に意思を確認すると、安生と宮
戸が「そういう言い方は、脅されているようで納得いきません」
と反発したのだ。

安生と宮戸は、前田の「解散」という言葉を担保に、早速、その
日の晩から若手だけの新団体設立に向けて動き出す。そこに船木
と鈴木も加わり、新弟子も含めた若手が集結。「解散」発言から
たった1日でもう新生UWFは元には戻れなくなったのだ。

「だからいま考えれば、安生、宮戸の二人は、会議のその席でそ
れを言うために、相当綿密にやり取りをしていたんじゃないかと
思う。じゃなきゃあそこまで強い意志をもって、あの宣言はでき
ない」

この「解散劇」について、高田は、どう統括したのだろうか?
(統括本部長だけに)。「前田さん、すみませんでした」か、そ
れとも「前田さん、アンタが悪い」だったのか、“一般論”とし
て高田は語る。

「これは一般論だけど、やはりどんな域に達した人間でも、自分
に非があれば謝ることは必要。やはり、組織において人材という
のは財産だから、それを守って前に進めるために、時には忸怩た
る思いがあったとしても、頭を下げる。また、仲間の言っている
ことを一度、芯から受け止めて、理解するための努力をするって
いうのは、トップに立つ人間として、必要不可欠な資質なんじゃ
ないかと思う。自分が意地を張ることで、継続させたい組織がバ
ラバラになってしまったら、元も子もないからね」