・「証言UWF」レビュー・藤原喜明の場合 | ぐーすけとりきのブログ

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さてさて、今回はUWFのご意見番、藤原喜明
の登場である。

1949年、岩手県生まれ。72年に新日本プ
ロレスに入門。新人時代からカール・ゴッチに
師事し、のちに“関節技の鬼”と呼ばれる。

84年に“テロリスト”としてブレイク。同年
7月からは第一次UWFに移籍し、佐山、前田
らと、UWFスタイルのプロレスを造り上げる。

その後、新生UWFを経て、91年には藤原組
を設立。2007年に胃がんの手術をするも無
事生還し、いまも現役で活躍中。

新日時代は道場を任された形でスパーリングを
行い、外国人がちゃんとプロレスを守った試合
をするか“ポリスマン”を務めていた。

その「UWF」を藤原に聞いてみると「うん、
あれは、新日本プロレスの道場にあったものだ
よ」との返事。

「入門して2ヶ月たった頃、ちょうどゴッチさ
んが来日して、道場でコーチしてくれたんだ。
そのとき、関節技って面白れえなと思ってね。

あれは最小限の力で最大限の効果をあげるとい
う力学だから。俺は工業高校機械科で応用力学
の成績は“5”だったから、ああいうの得意な
んだよ。

またプロレス団体の道場っていうのは生存競争
が激しい場でね。弱ければイジメられるんだよ。

その代わり、先輩後輩の厳しい上下関係はある
けど、自分が強ければ、練習でぐちゃぐちゃに
して合法的に相手を殺せるんだ。

自分の居場所をつくるなら強くなるしかない。
だから練習したんだよ」

そして藤原の周りには、同じように「強くなり
たい」という強い思いを持った若者たちが、自
然と集まってきた。佐山聡、前田日明、高田伸
彦(現・延彦)らだ。

藤原たちは、藤原がゴッチから手ほどきを受け
た関節技をあ~でもない、こ~でもないと思考
錯誤しながらスパーリングしていたが流石に短
期間ゴッチにコーチを受けただけでは尺が足り
なくなった。

「どうやったら関節技が極まるのか、理論的に
説明できる人が誰もいなかったんだよ。若い頃
に一度、山本小鉄さんに『どうやって極めたら
いいんですか?』って聞いたら『根性で極めろ』
って言われたからね。

『捕まえたら離すな』とかさ。それじゃ力くら
べだもんな。あと『テコの原理だ』って言うん
だけど、そのテコがなんだか理解してないんだ
から(笑)」

「あるとき、猪木さんに『おまえはよく頑張っ
ているから褒美をやろう。何が欲しい?』って
聞かれたんだ。俺は迷わず『ゴッチさんのとこ
ろへ修行に行かせてください』ってお願いした
んだよ」

とまあ、千一夜物語のような話ではある。

この藤原の願いは叶い1980年1月からフロ
リダに飛び、それから半年弱、マンツーマンで
ゴッチの指導を受けた。

連日、様々な技術を教わる中、藤原はそれらを
確実に身につけるために、毎日一つか二つの技
に絞って、得意のイラストを駆使してノートに
書き留めていった。

それが有名な「藤原ノート」だ。

フロリダのゴッチ道場から帰国後も、藤原は凱
旋帰国として売り出されることもなく、前座レ
スラーと若手のコーチという立場は変わらなか
った。

ところが、それから4年がたとうとするある日
突如として藤原が脚光を浴びる機会が訪れた。8
4年2月3日の札幌中島体育センターで、藤波
とのタイトルマッチ直前に長州力を花道で襲撃
し、“テロリスト”として一躍その名を轟かせ
ることとなったのだ。

入門12年目にして、ついに藤原は表舞台に躍
り出たのだ。

しかし、そのわずか4ヶ月後に藤原は新日本を
退団。UWFに移籍してしまう。

「新日本の待遇に不満はなかった。好きなこと
をやらせてもらって、給料をいただいてね」

ただ当時、山本小鉄をはじめとした選手が中心
になって、猪木の社長退陣を求めた事件と丁度
かさなる。

藤原は、クーデターのことは一切知らなかった
という。

「でも、俺は他のレスラーからも相談は一切受け
てねえんだ。それなのに、猪木さんには『おまえ
もか!』って疑われるし、仲間だと思ってたヤツ
は一言も声をかけてくれねえし。

そのとき、『あ、俺はこの会社に必要ない人間な
んだな』って思ったんだ。

そんな気持ちをひきずってたところで、旧UWF
の浦田社長に『必要だ』って言われたから行った
までだよ。俺は別に誰も裏切ってないよ」

しかし、旧UWFも前述した如く前田vs佐山の膠
着しプロレスからは逸脱した試合を後に、事実上
解散してしまう。

興行機能を失ったUWFは、86年1月から業務
提携という形で新日本に参戦。キックとサブミッ
ションの二丁拳銃(古舘伊知郎)を中心としたU
WFの戦いは、テレビ朝日に電波に乗ることで、
結果的にファンを大いに増やすこととなった。

しかし、UWFの燻りもまだ残っており、前田も
「常勝チャンピオンなんてありえないんだ」とか
「いつだって妥協しないぜ」プロレスらしくない
試合を披露することとなった。
(クラッシャー・バンバン・ビガロ戦では妥協し
てワークをしているが…)

前田vsアンドレ戦しかり、長州力顔面蹴撃事件し
かり、前田は他のUWFのメンバーとの離間作を
受け、とうとう新日本から飛び出てしまった。

この一件で前田が新日本を解雇されたのを機に高
田、山崎らも同調し新生UWFが旗揚げされるが
第一次UWF勢のなかで藤原と木戸は新日本に残
ることとなった。

「俺は別に前田から『来てください』と言われた
けど、二度と面倒くさいのが嫌で新日本に残ろう
と思った。だから行かなかっただけだよ」

それがまる一年後の89年3月で新日本を退団し、
新生UWFに移籍した理由はなんだったのか。

「俺はあの時も、新日本と契約するつもりだった
んだよ。ところが、契約交渉の席で金額提示をし
てきた倍賞鉄夫(当時、新日本の取締役)が、
『“君程度”ならこれくらいで十分だろう』と言
ってきたんだ。

“君程度”だぞ?

その一言にカチンと来て、『あー、もう辞めるわ。
こんなところでやってられるか』となった。

で、辞めたあとに前田に電話して、『俺は新日本
を辞めたから、使えるようなら使ってくれ』って
言ったのをハッキリ覚えている」

新日本から藤原、船木、鈴木が加わったことでU
WFブームも加熱。しかし、ややもすると早くも
不協和音が聞こえてくるようになった。

前田らトップ選手たちと、若手選手たちが対立。
双方に会話がなくなり、前田、高田、山崎は道場
にもあまり顔をみせなくなっていったのだ。

ここらへんでは、確認が取れてないが、高田は若
手と一緒に、誰よりも練習していたらしい(後の
UWFインターの所属選手が口を揃えて言ってい
る)。メディアに取り上げられ、マスコミの寵児
となった前田は練習不足がよくわかるようにお腹
ポコーリとなっていた、若手とのスパーもあんま
しやらなくなっていたようだ。

UWF移籍から1年が経つ頃には、トップ選手と
若手選手との対立だけでなく、選手とフロントの
対立も表面化。藤原は会議も出席しないようにな
る。

「集まって何か言い合いしてたみたいだけど、俺
には関係ないしさ。面倒くさいの嫌だもん。プロ
レスラーっていうのは、練習やって、ちゃんと飯
を食って、腕を上げて、それで試合でお客さんに
喜んでもらう。それ以外は無駄だもん。あとはい
らないもんな」

90年12月1日の松本大会を機に新生UWFは
活動を休止した。万歳三唱で一枚岩なところを見
せた団体は、年を明けた例の前田の「解散宣言」
によって、あっけなく終わってしまう。

藤原は会議に出席してない。が、松本大会のあと
藤原のもとに一本の電話があった。メガネスーパ
ーの田中八郎社長からである。

「「藤原部屋」をつくらないか?」という話だっ
たんだけど、そのために『船木と鈴木を引っ張れ』
と言われたんだよ。でも、俺は社交性もないし、
人にモノを頼むのもヘタクソだしさ、どうしたも
んかな、困ったなと思ってたんだ」

そこへ、前田の「解散宣言」。

残された若い選手たちは、自分たちだけでUWF
を続けていくことを模索。船木と鈴木は、師匠で
ある藤原のもとに相談に来た。

「それで『どうしたんだよ?』って聞いたら『U
WFが解散してしまったので、なんとかしてくだ
さい』っていってきてな。田中さんに電話したら
『お金の準備は私がするから、すぐに団体をつく
る準備をしなさい』て言われたんで、その日のう
ちに知り合いの不動産屋にいって道場を決めて、
いろんなことがバババーッと動いて、1週間くら
いで藤原組の旗揚げが決まったんだ」

結局、3派に分かれることになったUWFだが、
藤原組の動きは本当に早かった。91年2月4日
に浅草ビューホテルで設立記者会見を行い、3月
4日に、早くも後楽園ホールで旗揚げ戦を行った。

「解散」から2ヶ月足らずで、すでにUWFは過
去のものになっていた。

その藤原組も、藤原と若い選手の考え方の違いが
生じ、92年末には船木、鈴木ら選手の大半が大
量離脱し、パンクラスとして独立。

その後、藤原組は新たに新弟子を取り続けていく
が、95年11月19日の横浜文化体育館大会を
最後に団体としての活動を停止した。

ぐーすけが思ってることがある。いや、ほとんど
の皆さんも思っているじゃないだろうか。

藤原の総合の実力である。

新日時代には異種格闘技戦でドン・中谷・ニール
センと闘っているが、それはプロレスでってこと
で参考にならない。

年齢の割にはグラップリングが上手いと思う。

しかし、打撃ありでは流石に乗り切れないのでは
ないか。

藤原も年齢から言っても、もはや総合へ参加する
ことはあるまい。

ブラジリアン柔術が格闘技界を席巻した93年あ
たりに見てみたかった。