明治32年、東京・日本橋に「牛めし屋」を開業。
のちに築地に移転し、チェーン展開を始める。
効率化と情報管理を進め、フランチャイズ店は
急速に増加。
しかし昭和48年、政府が突如、輸入牛肉の規制
を強化したことで、輸入肉の値段が高騰。
昭和55年には事実上、倒産という憂き目に遭うも、
吉野家原点の味に立ち返り、わずか6年7ヶ月で
再建。
2000年に東証一部上場を果たした吉野家100
年余の歴史とは?
★ ★ ★
明治時代、東京・日本橋に魚市場があった。
明治32年、魚市場に「牛めし屋」が開店。
創業者の松田栄吉は、
「屋号はわしの出身地大阪吉野町からとって
「吉野家」としよう」と命名。
牛めしは明治になり、牛鍋の残り汁をご飯に
かけたのが始まり。
急いで食べられる牛めしは市場で働く人々に
大人気となった。
関東大震災後、魚市場が築地に移ると、
吉野家もその一角に再開。
後継者の松田瑞穂は父永吉にこう提案する。
「父さん、築地は朝が早いからいっそのこと
一晩中やったらどうかな?」
「入口を開放し、店を大きく使おう」
「店内も明るくして入りやすくしよう」
店を手伝っていた息子の瑞穂は、独自のアイデア
で店を改良していった。
24時間営業が当たり、吉野家は大繁盛した。
しかし瑞穂は、築地の中だけの成功に、
これでよしとしない。
「いつまでも築地の中だけでは大きくなれない
外に出たい」
昭和33年、瑞穂は吉野家の企業化を目指し、
築地に1号店を出店、資本金100万円で
会社設立。
「モットーは、早い!うまい!安い!だ」
瑞穂は売り上げを伸ばすのに試行錯誤する。
「どうしたらムダなくスムーズに運ぶのだろう」
「仕入れから品質をチェックして、安全な肉
を提供するには?」
「カウンターはこの高さでいいのだろうか」
「盛りつけはどうすれば見映えがいいのか?」
「接客サービスはどうすれば好印象になるのか?」
こうした展開が効果を上げて、7年後には
年商1億円を超えるまでになった。
しかし、瑞穂のあくなき向上心は、とどまる
ところを知らない。
「売り上げはこれが限界だ。
もっと伸ばすためにはチェーン店化が必要だ」
「本場アメリカへ研修に行こう」
アメリカでチェーン展開のシステムを学んだ
瑞穂は、吉野家の拡大に取り組む。
昭和43年、新橋に2号店を出店。
「コーポレートカラーはオレンジだ」
「牛のマークも導入する」
「社員に学歴は問わない」
「やる気と能力があれば、誰でも採用する」
「われわれはサービス業だ。人材が全てだ。
人材の育成に金は惜しまない」
「アメリカに研修に行かせ、
優秀な社員には報奨金も出す」
こうした環境で吉野家の社員は能力を発揮。
彼らはフランチャイズ店に出向していった。
当時、吉野家のFCは店長をはじめ、店の全てを
本部から調達する方式になっていた。
「材料を効率よく調達するには、一箇所で購入
し、処理したほうがいい」
昭和47年、アメリカからバラ肉を輸入し、一括
処理するミートセンターを開設。
さらにコメや野菜も一括処理するセントラル・キ
ッチン方式を採用。
業界に先駆けたシステムにより、効率化と情報管理
が一気に高まった。
これにより、フランチャイズ店も急激に増加。
「バラ肉の需要が高まるアメリカに支店を出して
肉を効率よく輸入しよう」
と考えていたその矢先に…。
「大変です!牛肉の輸入が規制されます」
昭和48年、政府は輸入牛肉規制を強化。
「国内の畜産を守るためだが、牛肉は値上がりするぞ」
「やむを得ない。
牛丼200円を300円に値上げだ」
それでもフランチャイズ店は増加し、ついに
200店を突破。
「これでは牛肉の仕入れが間に合わない…。
フリーズドライ肉を使おう」
これが、裏目に出た。
「この頃、牛丼の味が落ちたような気がしないか」
「いつもの味じゃないな」
これが客離れを引き起こすことになった。
急激な拡張と、牛丼の売上落ち込みにより、
負債が一気に111億円にまでなった。
昭和55年、吉野家は事実上倒産した。
ここから、管財人の増岡氏が指揮をとることに
なる。
「社員諸君、吉野家に会社更生法が適用され
ました。
倒産ではありません。
みんなで再建しようではありませんか!」
耳慣れない言葉に、社員も戸惑う。
「どういうことです?」
「倒産じゃないって?」
「更生法ってなんだ?」
「会社更生法って大企業の話でしょ?」
「なぜ、吉野家が?」
増岡は逐一丁寧に説明する。
「吉野家の牛丼は東京圏だけで、どのくらい
食べられているとお思いですか?」
「一日10万食ですよ。
これはすごいことです。
それだけ支持されているのです」
「吉野家は、ほかの企業と違い、日銭が入るのが
強みです。
絶対に店を閉めてはなりません」
その言葉に、社員も触発されて奮起が始まる。
「多くの仲間が吉野家を見捨てていった」
「彼らを見返してやりましょう」
「吉野家をつぶしてなるものか!」
新方針もあらわに打ち出してきた。
「再建セールとして、値下げしよう」
「地方の不採算店は縮小する」
「フリーズドライはやめて、元のバラ肉にする」
「本来の吉野家の牛丼にするんだ」
本来の味に戻ると、次第に客も戻り始めた。
社員のアイデアも活かされるようになった。
「店長、こんなアイデアはどうでしょう?」
「朝定食の鮭定食か。おもしろい。
これなら午前の売上もアップする」
そして、ついにゼゾングループに加入。
昭和62年…。
「たった6年と7ヶ月で負債を完済できた。
吉野家は再建した。
これは奇跡だ!!
吉野家の社員諸君の努力に感謝する。
ありがとう!!」
増岡の努力は実った。
平成4年、アルバイトから社員になった安部修仁が
社長に就任。
昭和63年からは、社名も「吉野家ディー・アンド
・シー」となり、牛丼以外の外食産業にも進出。
平成12年、東証一部上場を果たした。
デフレ時代をなり、各外食店が値下げを行い始めた。
「お客様は低価格を支持している。
効率化を図り、価格を変更だ」
平成13年、牛丼280円を発表すると大評判となった。
BSE(狂牛病)で一時影響が出たが、安全な牛肉を
使っていることが認知され、改めて吉野家の食への
こだわりが評価されたのだ。