1998年8月15日土曜日、朝早くビルに起こされた。数ヶ月
前と全く同じだった。今度は彼はベッドの隅に座らず、部屋の中を
行ったり来たりしていた。そして、初めて私にいった。事態は
思ったよりずっと深刻になってしまった。今となっては、不適切な
関係があったことを宣誓証言するしかない。ふたりの間に起こった
ことは、突発的でつかの間に出来事だった。でも7ヶ月前にはどう
してもきみにいえなかった。あまりにも恥ずかしくて認めることが
できなかったから。それに、きみがどれほど怒り、どれほど傷つく
かがわかっていたから…。
私は息ができなくなった。思い切り空気を吸った後、泣き叫んだ。
「どういうこと?一体何をいってるの?どうして私に嘘をついたの
?」
私は怒り、怒り狂い、とめどもない怒りに我を忘れた。彼はその
場に立ち尽くしたまま、何度も何度もいった。「すまない。本当に
すまない。きみとチェルシー(ビルとヒラリーの娘)を守りたか
ったんだ」私は自分の耳を疑った。今の今まで、あんな若い女に
気を取られたとはなんて馬鹿な男だろうと思っていただけで、彼
はただ濡れ衣を着せられているのだと確信していた。彼が私たち
の結婚生活と家族を危険にさらすようなことをするなんて、とて
も信じられなかった。私はそもそも彼を信じた自分に愕然とし
傷つき、腹が立った。
それから、気がついた。チェルシーにも話さなくてはならない。
「あなたが話しなさい」というと。彼の目に見る見る涙がたまった。
彼は夫婦の信頼を裏切った。この過ちで取り返しのつかないことに
なるかもしれないことが、二人にはわかっていた。その上チェルシ
-には、彼が彼女にも嘘をついていたことも告げなくてはならなか
った。私たち家族の一人ひとりにとって、辛い瞬間だった。これほ
どひどい裏切りを受けても、結婚生活を続けることが出来るのか、
あるいは続けていかなくてはならないのか、私には皆目分からなか
った。わかっているのは、自分の感情と上手く折り合いをつけなく
てはならないということだった。どうしても誰かと話したくなり、
手引きを求めて、カウンセラーをしている友人に電話をした。これ
は生涯で最もショッキングで辛い体験だった。いったいどうすれば
いいのか、私は途方に暮れた。が、自分の感情をきちんと見つめる
ために、心のどこかに落ち着いた場所を見つけなくてはならないこ
とはわかっていた。
ビルは、何週間もの間、私とチェルシー、友人たち、閣僚、職員
同僚にたいして、欺いて失望させたことを謝り続けた。9月初旬に
ホワイトハウスで宗教界の指導者たちとの祈祷朝食会が開かれた
時には、自分の罪を心から認め、アメリカ国民の許しを請いたいと
話した。が、大統領を辞任するつもりはなかった「私の弁護士たち
には、利用できる適切な議論をすべて駆使して、精力的な弁護を
展開するよう指示するつもりです」と彼はいった。「だが、私が
過ちを犯したという事実は、いかなる法律用語でもあいまいにする
ことはできません。私が心から悔い改め、それを認めてもらえる
ならば……そうなれば、私たちの国ばかりではなく、私や私の家族
にも何らかのいい結果がもたらされることでしょう。この国の
子供たちには、誠実さは大切なことであり、身勝手は間違いである
けれども、神は私たちを変え、破壊の場で強くしてくださるという
ことを学んで欲しい」
ビルは自分の政治生命をアメリカ国民に賭け、哀れみを請うた。
そうして、ホワイトハウスに入居した日とまったく同じ熱意をも
って、大統領としての職務に戻った。一方夫婦としては定期的に
カウンセリングを受け、互いに厳しい質問を投げかけては答える
という作業を繰り返しやらされた。これは、選挙運動にかまけて
何年も先送りしたことだった。この頃になると、私もこの結婚生活
を守りたいと思うようになっていた。できれば、の話だったが。
私の士気を高めたのは、ビルの率直な謝罪にたいする世間の受け
止め方だった。大統領の支持率は、この危機の間ずっと安定して
いた。約6割という多数のアメリカ国民が、ビルは辞任すべきでは
ないと言ってくれた。私の支持率もこれまでにない高さを記録し、
最後には7割にも達する勢いだった。アメリカ国民が基本的には
公平で同情的だという証だった。
ビル・クリントンの謝罪は、彼のスタッフにより手際よくまとめ
られていたと思う。大統領は老眼鏡をかけ、シナリオを読む際も
書類を鼻のそばに持っていなければ見えない、よう演出されて
いた。声も細く、「もう、許してくれや」といった雰囲気に
満ち満ちていた。ビルの功績を考えれば、間違いがあったとして
も、それを差し引いても人々が同情するような会見だった。演出
は成功したといえるだろう。