■2:カネのメドがついた新政府軍は「赤報隊」をどう扱ったか | ぐーすけとりきのブログ

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 既に述べたように赤報隊は官軍の兵力不足を補うべく、「赤心
をもって報国する」有志によって結成されたいわばボランティア
戦隊であった。そして「新政府」の財源不足を補うべく「年貢
半減令」を道筋の村々に公布することが許されていた。ここは
重要なことなのでもう一度繰り返すが、これは「新政府」の
了承を得てのことであった。


 しかし、財源不足に悩んでいた「新政府」は龍馬の親友三岡八郎
の奇策「太政官札の発行」によって甦(よみがえ)った。しかも
慶喜の逃亡によって「新政府」への支持は絶対的なものとなった。
そのことによって、相楽の赤報隊は不要となったばかりか、むしろ
新しい政治の厄介者となってしまったのだ。「年貢半減令」は
必要でない。いや将来のことを考えたら「無かったこと」にしたい。


 だが、もう触れ回ってしまった。


 さて、どうするか?


「新政府」が考え出したのは、赤報隊を「ニセ官軍」にしてしまう
ことだった。実にひどい話だが、これなら年貢半減令も「ニセ
官軍の言ったデタラメ」という形で「処理」できる。


 しかも彼等赤報隊は「ニセ官軍」の汚名を着せられたばかりでは
ない、その「罪状」をもって相楽ら幹部は全員処刑されてしまった
のである。


 1月8日に近江金剛輪寺で旗揚げした赤報隊は中山道を進み
官軍先鋒として20日には美濃国を経て信濃国下諏訪に入った。
ところが突然本軍である東山道鎮撫総督府から呼び出しがかかり
相楽が美濃国大垣の本営に出頭すると、軍令違反を咎められた。
道筋の村々に対し乱暴狼藉を働いたというのである。身に覚え
のない相楽は抗弁し一旦下諏訪へ戻ることを許されるが、
戻ったところを薩摩兵に捕縛され、他の幹部や隊士全員と共に
諏訪神社の杉並木に縛り付けられ一昼夜放置された。おそらくこれ
は彼等が「ニセ官軍」であることを周知せしめる狙いがあったと
考えられる。


 そして、3月3日、相楽らはなんの取り調べもなく、抗弁も
許されず斬首された。満28歳の生涯であった。


 西郷隆盛も非情だ。


 相楽の江戸攪乱工作によって窮地を脱したにもかかわらず、
この時は何の救いの手も差し伸べなかった。


 実は相良は本名を小島四郎将満といい、実家は下総国相馬郡
の郷士の家柄で素封家でもあった。相楽の活動資金は他人から
略奪したものなどではなく、自腹を切って提供したものだ。
まさに本当の意味のボランティアだったのである。


 「新政府」はこの男に無実の罪を着せて抹殺した。