■新政府軍にはカネもない兵力もない~「逆説の日本史21巻」
「敵を欺(あざむく)にはまず味方から」という。
徳川慶喜の敵前逃亡(大阪城脱出)は、この原則をきっちりと
守ったものだった。味方の旧幕府軍すら、大半は慶喜の逃亡を
知らなかった。ましてや官軍側はそれに気がつくはずもない。
大阪城は天下の名城であり、最近は砲台も建設されている。
兵糧も貯えてあるから少なくとも数ヶ月は持つだろう。
ならば、その間、官軍はどうすべきか、大阪城に全力を
集中するだけで良いのか?西郷は、この際「慶喜が留守にして
いる」江戸も攻めるべきだと考えた
そこで、東海道、東山道、北陸道に公家を大将(鎮撫総督)に
任命した軍団を派遣し、江戸へ向かわせたのである。
大きな問題が2つあった。
軍資金不足と兵力不足である。
実は「新政府」にはほとんどカネというものがなかった。
大政奉還の際に、致命的な手抜かりがあったからだ。
それは政府を受け継ぐならば、当然国庫(カネ)も引き継ぐべき
だという、当たり前の事実に気が付いた人間が「新政府側」には
なんと一人もいなかったちう、信じられないような事実である。
坂本龍馬が生きていたら、早速大阪城へ勅使を出して、ご金蔵
の千両箱を接収するよう取り計らったかもしれないが、政権を
受け継いだら当然そうしていいということに誰も気がつかなか
った。
だから「先立つもの」がない。兵糧などはどうやって確保すれ
ばよいのか?また、兵力も不足していた。
この時点で西郷は、まさか慶喜が大阪城での戦いをあきらめ
逃亡したなどとは知らない。つまり大阪城攻めには最新鋭の装備
を持った主力で当たる必要があると思っていた、ということだ。
ゆえに三道に派遣される軍団は、「錦旗」という武器以外は
旧装備の、精鋭とは言えない兵士で構成されることになる。
このカネ不足、兵力不足を補うために、西郷は名案を考えた。
まず兵力不足だが、どこの藩にも属さない浪人集団の手を
借りることにした。吉田松陰の提唱した「草莽」である。幸い
にも西郷の下に、江戸のテロ活動で旧幕府軍の挑発に成功した
浪士相楽総三らが、薩摩海軍の軍艦で江戸を脱出してやってきて
いた。西郷は彼らに「新政府軍」の先鋒隊として出撃するように
依頼した。
そこで、両者が決定したのが「年貢半減令」である。これは
もともと「新政府」への民衆の支持を取り持つため、おそらく
岩倉か西郷あたりが提案したものだと思われるが、方針として
決定していた。
「まだ情勢はどちらに転ぶかわからない。そこでお主は関東へ
向かう道すがら、この年貢半減令を百姓に訴えていけ。そうすれ
ば民衆は圧倒的にわれわれを支持するだろう。そうなれば献金
する者も兵糧を提供する者も大勢現われ、当座の軍資金不足
も解消されるだろう」
あくまで想像だが、このようなことを西郷は言ったのだろう。
だからこそ相楽は西郷の要請を快諾したのだと思われる。
相良は素早く動き、慶喜が大阪城を脱出した2日後の1月8日
には、近江国の金剛輪寺で「赤報隊」を旗揚げし勇躍、東へ
向かった。
「新政府」も「カネがない」という事態に全く手をこまねいて
いたわけではない。松平春嶽の家臣で財政通の福井藩士三岡八郎
(後の由利公正)をあわてて招いた。彼は龍馬の親友であり
早い段階から「新政府」の財政を心配していた。
下駄を預けられた三岡は、おそらくかねてから「この手しか
ない」と考えていた策を実行に移すべく着々と準備を重ねていた。
それは「太政官札」という紙幣つまり政府の信用で流通する
信用貨幣を、300万両発行してしまい、三井など豪商から
買い上げた武器、食料などの支払にはこれを当てるという、前代
未聞の方策であった。
つまり、三岡は、まったくの財務ゼロの状態から、国家の一年
分の予算に匹敵する300万両をまるで手品のように作って
みせる、そのための準備を進めていたのだ。