昭和13年の張鼓峰事件の実態は、次のとおりであった。
7月9日、国境を越えて朝鮮に侵入してきたソ連軍が、
張鼓峰に陣地を築いた。これに対し日本軍は本国の外務省に
ソ連政府へ抗議するよう要請したのだが、ソ連軍はそれを無視して
さらに沙草峰南方にも陣地を構築した。そこで現地の日本軍が
出動して、この両峰からソ連軍を追っ払った。
これが張鼓峰事件の発端である。ソ連軍はこの両峰を奪回
しようとして飛行機・戦車を繰り出してきたが、日本軍はこれを
撃破した。昭和天皇の不拡大方針希望ということもあり、
参謀本部は現地の日本軍に飛行機の使用を許さず、また戦車も
出動しなかったので、日本軍は苦戦を強いられたが、この両峰を
守りきった。
この戦闘の犠牲者数は、日本軍の戦死526名・負傷者914名
に対し、ソ連軍は戦死1200名・負傷4300名である。また
日本軍は敵の大砲16門、戦車96台を破壊し、飛行機を4機撃墜
し、領土は確保したので、張鼓峰事件は日本側の圧勝だった
といってよい。
事実ソ連側も張鼓峰で負けたことを認め、責任を負ったブリュッ
ヘル極東軍司令官らは粛清されている。ブリュッヘル元帥は
張鼓峰事件を報告するため、、モスクワに向かったが、列車の
中で逮捕され投獄された。罪状は張鼓峰で日本軍に対し軽率な
挑戦をし、作戦の不手際でソ連軍に大損害を与えた、というもの
である。死刑を免れないと悟ったブリュッヘル元帥は、獄中で
自殺を遂げた。
だが、日本側が不拡大方針の姿勢に徹して、停戦協定を結び
撤退したところへ、ソ連軍は協定を無視して再び侵入し、鉄条網
を張り巡らせてしまった。一度入り込んでそのまま居座って
しまったら、あとはもう梃子でも出て行かない。これは帝政時代
以来のロシア人の国家的な伝統である。結果的には、この鉄条網
を張られた地域が停戦ラインになった。