こころのままに

こころのままに

特筆できるような能力は何もない、中卒で一児の母『へーしぇん』がドイツから気ままに綴ります

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自分の心を勇気づけたり、新たな気づきをもたらしてくれる人々の存在を知ることが出来たことー
これは今回の世界的な騒動から私が受けた大きな恩恵の一つだ。

やまびこDr.のブログも、この騒動のお蔭で存在を知った。
お医者さんでありながら、今の科学では説明のできない分野への言及もはばからない、それでいて自分と異なる考えの人も尊重する穏やかな人柄が文章から感じられて、すっかりファンになってしまった。






『自分の中の羅針盤』

私の場合、これは今でも時々見失ってしまうが、年々はっきりと感じられるようになってきたことが嬉しい。

機能不全家族の3人兄弟の末っ子として育った私は、無意識の内に「母親が受け入れてくれるかどうか」を自分の羅針盤にしてしまっていた。

長い長い日々を経て、まずは幼い頃抑圧するしかなかった感情を解放し、感じていき、次に、自分を幸せから遠ざける『信念』を見つけては手放していった。
その『信念』は、今でこそ自分を幸せから遠ざけてはいるが、幼い頃はそれこそが自分を守ってくれていたのだ。
『母親が受け入れてくれるかどうかを羅針盤として行動する』という無意識に作り上げた信念も、親に完全に依存していた幼い頃の自分にとっては、それがなければもっと苦しかったのだ。
偽りの自分でもいいから、親の笑顔を見たかった、親に受け入れて欲しかった…そうでなければ辛すぎたから…。

そんなふうに、その『信念』を持つに至った背景を理解すれば、その『信念』は自ずとなくなっていく。
なくそう、なくそう、と、その信念を邪魔者扱いしている間は、なかなかなくならない。どんなになくしたくても。
私の場合は、そうだった。

自分の中の、抑圧している感情を感じ切って、不要になった信念を手放し続けていくと、自分も、他人も、みんなそれぞれの立場でその時の最善を尽くしているだけなんだ、と腹の底から疑いようもなく思い知るようになる。(私の場合は)

だから、今現在、外側の羅針盤に依存しているように見える人も、「きっと大丈夫」と思ってしまう。
「それ以外出来ないよね、私もあなたとして生まれ、育っていたら、同じように生きているよ」と思ってしまう。
その人にとって必要で最善のプロセスなのだと。

新型コロナ騒動で気づけた、自分の中の大きな信念の一つは『死に対する恐怖、死は悲劇、死んだら終わりという認識』だ。

私はまだ(この肉体に宿ってからは)死んだことがないので、『死んだら終わり』とも、『死んでも魂は永遠に続く』とも全く分かっていない。

分からないのならば、私はどちらを信じたいか。
どちらがより幸せを感じて生きていけるか考えた時、私は、『魂は永遠に続く』を採用しようと思っただけのこと。

まだ311の頃なんかは、政府や大企業に怒りを感じていたし、何の罪もない子どもや、弱い立場の人々の健康や命が奪われることが悲しかった、許せなかった。

でも今は少し考えが変わった。

まず、『死は悲劇』という信念に対し、「本当にそうなのだろうか?」と疑問を持つようになった。
もしも肉体の死が、永遠に続く魂の旅のほんの一時的な変化でしかないのだとしたら…。


そして、死に対する信念が変わったことで、『罪のない子どもや人々の命を平気で奪う悪魔のような加害者』という信念・定義にも変化が起こった。

とんでもない荒唐無稽な話に聞こえるかも知れないが、私は、誰にも罪はないのではないかと感じるようになったのだ(私が私の中で思うことであり、違う意見の人を説得しようとは思っていない)。

法的、倫理的、感情的には、加害者に罪があるのは当然かも知れないし、私ももちろん、誰の命も理不尽に奪われて欲しくないし、皆が寿命を全うして欲しいし、皆が安心して幸せに生きて欲しいと願っている。
だからその為にこそ、何故、加害者が加害者となったのか、その原因や背景を理解しなければ、悲しみや理不尽は繰り返されてしまうのではないかと考えるのだ。

そんな考えを持つに至ったのは、私自身に、どんなに自分を変えようと思っても、理性で抑えようと思っても、とてもコントロール出来ない自分の怒りに翻弄されるという経験が、それこそ園児の頃から大人になるまで長い間続いたという過去があるからかも知れない。

7歳の自分の誕生日に、何かのきっかけでカッとなり、お祝いに来てくれた一番の友達の足をバトンで叩いて泣かせてしまった事がある。
冷静になってから、また怒りを制御できなかった、自分は何て恐ろしい悪魔のような人間なのかと自己嫌悪、反省するのだが、また気づいた時にはカッとなって怒りに支配されてしまうのだ(大抵は暴力を振るうところまではいかなかったが)。
その数ヶ月後引っ越しをして転校したが、事あるごとに思い出しては、自己嫌悪して、6年生になってから、改めてその友達に謝罪の手紙を送った。
友達はとっくに許してくれていたようだったが、自分は自分を許せずにいた。

同い年の、心穏やかな優しい園児や児童を見ては、何故そんなふうに居られるのか、あの子達は私のように心の中の凄まじい怒りを強靭な精神力でもって制御していると言うのか?いや、とてもそうは見えない。
何故私はこうなのか。

毎日そんなふうに思っていた。

それから数年、十数年経って、やっとその怒りの意味が分かり、必要なステップを経て、あれだけ嫌悪して排除しようとしていた怒りが、怒りの方からひとりでに消えていった感覚を経験した自分としては、加害者に対していくら怒りを感じても、罰を受けさせても、反省させても、根本解決にはならないと思うのだ。
(これは現状、被害に遭い、悲しみや怒りや絶望やあらゆる苦しみの渦中にいる被害者に対して理解を求めようとは毛頭思っていない。そして、現状コントロール不可能な怒りや攻撃性に支配されてしまっている加害者へ、これ以上被害者を増やさない為の差し当たっての措置は必要だと思う。)

皆、それぞれ、生まれ落ちた親の下、環境の下、その後出会う人々の影響の下、与えられた条件、築き上げた信念を元に最善を尽くしているのではないか。
この肉体を纏っている期間だけを見ると理不尽、悲劇としか思えないようなことも、魂が続くとしたら、そしてより広い視点で見るなら、必要で意味のある最善の道のりなのかも知れない。

魂だとか、こんな荒唐無稽な話は証明も出来ないし、これが絶対に正しいとも思わない。
誰かを説得しようとも思わない。

自分のこれまでの経験が導き出した一つの考えであり、またこう考えた方が、自分の望み(周りの人や状況に自分の幸せを左右されるのではなく自分だけが自分の幸せを左右する、幸せに生きる人をたくさん見たい等々)に近付けるので、そうしているだけだ。