腐る土で育つ芽はどんなものなのか。体験談を交えた小説です。ときどき絵も描きます。
仮ページ、調整用
あれは2年生のある日の出来事。まだ春が終わるか終わらないかという微妙な季節だったと思う。プリント配布の手伝いをしていたら、担任がボソッと「あたし、あんたみたいな子、嫌いなのよね~」と唐突にのたまった。何の事やらと思ってポカンとしていると、教室の空気が一変するのを感じた。好きでも無い先生だったが、堂々と宣言までして嫌うなら理由くらい述べても良いのに、それ以上何も言わないのだ。それ以後、女子生徒の私を診る目に変化があった。先生が嫌っているなら何をしても良い、とでも思ったのだろう。最初は些細な出来事からだった。トイレから教室へ戻ると、自分の机の周りに筆箱が散乱していた。私の物だった。「あ…誰がやったの?」誰も何も言わないでクスクスと笑っている。確信犯だと思った。言わないなら言わなくていい。どうせ1クラス18人程度の小さな田舎の学校だ。18人のうち半数が女子ならその誰かがリーダーなのだろう。私は無言でそれら散らかった私物を片付けた。その日から、行動は少しづつ変化して行った。手は出さないが口も利かない子。見て見ぬフリをする子。特定の子にくっついて腰ぎんちゃくをしている子。そしてリーダー格が割れた。英子と明子だ。たった9人の女子のうち、私を除けば8人が敵になった。ほぼ毎日のように私の私物は汚されていった。教科書、ノート、プリントや配布物、小物に至るまで、ありとあらゆるものに乱暴な言葉や落書きが書かれていくようになった。犠牲になるのは持ちモノだけだった。私に直接的な乱暴を働く子はまだいない。であるなら事を大きくしない方が賢明だと思った。学校生活はまだ4年あるが、中学校まで耐えれば良い。地区の複数の小学校から子供が集まる。18人が散らばってしまえばここでの些細な出来事も水泡に帰すだろう。その時まではそうい考えていた。でも現実は甘くは無かった。▶~4年生---------------------------------------------------------2年経ったある日、とんでもない事が起きた。私は5時限目から学校が終わるまで、席を立つことができなくなった。それは突然の出来事だった。最初は尿漏れか何かだと思ったんだ。もしそうだったら臭いで揶揄われる。それだけは嫌だった。授業と授業の合間の放課時間、できるだけ急いでトイレに行くと下着が汚れているのに気付いた。真っ赤だった。病気にでもなったのか、お腹は痛くないが目には毒だった。ズボンは汚れていないか確認したがまだ大丈夫なようだった。どうしようか。どうすればいい?保健室?いや、あそこは低学年の子供達が屯していて行きにくい。誰かに知られるのは嫌だった。じゃぁどうすれば?とりあえず目の前にあるトイレットペーパーをグルグル巻いて潰して分厚くして、それを股間と下着の間に挟んだ。急場凌ぎでも無いよりはあった方が良い。6時限目が終わると、私は荷物を大急ぎでまとめて、猛ダッシュで家を目指して走った。股間が気持ち悪い。実際には気のせいだろうが、心なしか鼻に血の匂いが届いている気がする。走りながら自分の後方を見た。追い立てられている訳でもないのに、他人が気になった。ただ同学年の誰かとブッキングしないか、そればかりを怖がっていた。家に着くと部屋に戻ってすぐに新しい下着を取り出し、慌ててトイレに駆け込んだ。さっきやったトイレットペーパーのグルグルも、もう一度作り下着の間に挟む。洗面所で下着を洗った。下着についた粉せっけんがザラついて取れない。でもこのままにはできない。ふと気づいた、背中越しに一歩後ろの人影。黙って私のやっている事を見つめる、母がいた。「何してるの」「‥‥パンツが、血で汚れたから洗ってる」「なんでそんな事‥‥」言いかけて母の手がグイっと伸びた。私の手から洗いかけのパンツを取り上げた。「これ学校で?」「うん…私死んじゃうの、こんなに一杯血が出て、何かの病気なんでしょ?」知らず知らず涙が溢れた。不安だったのだ。だが母は面倒くさそうな顔をしながら私を見た。「誰かに見られた?保健室の先生とかは?」「…いや、誰にも見られてない、はず。気を付けてたから」「そう」洗濯機にパンツを放り込んだ母は「回しておきなさい」そういうとその場から立ち去った。その後、私は部屋のベッドの上で母に教わった紙ナプキン(この時代のナプキンはテープで固定できていません。)とやらを股に挟んで、パンツで押さえ、身じろぎ一つせずに横たわっていた。母はバタバタと忙しげに振舞っていた。股がゴワゴワして気持ち悪かった。トイレットペーパーよりはマシだったけれど、少しズレるだけで不安になる。ジッとしていないともっとズレてしまいそうで、硬直したように体を仰向けにお尻に力を入れたまま、天井を見つめていた。涙で視界が何度もぼやけた。そのたびに枕に雫が垂れ落ちる。こんな嫌な思いばかりするなら、女になんて生まれてこなきゃ良かったのに。母が言うには生理と言うらしい。体が子供ができる準備を整えたのだと説明してくれたが「子供なんかいらない、血を止めて」と懇願したが、それは「無理だと言ってるでしょ。そういう風に人間はできているの。いつまでも馬鹿なこと言っていないで」と厳しく非難された。逃げ出したい。生理からも学校からもこの家からも。そう言えばさっき母が誰かと電話をしていた。「そう‥‥5年生からなの?普通は授業で教えるもんだと思っていたけど‥‥早かったって事ね」授業?5年生?何を言ってるんだろう?でもあの母の落ち着きようには違和感があった。授業…5年生から…体の事について授業で習うはずだったのに、先にこうなってしまった、って事なのかな…?母は言った。面倒な娘(子)と。普通は5~6年生くらいにやってくるものなのだそうだ。それまでには授業で習い、正しい知識を全員が共有する。そうすればこんな事にはならなかったろうに、と。授業が間に合わなかった事も、生理も私が悪いんだと。面倒な娘(子)だと。もう、私は泣かなかった。泣いたところで何も解決しない。いつまでも理不尽を恐れるだけの自分ではいられない。こうなったら徹底的に反抗してやる。股のゴワゴワが慣れない。気持ちの悪さを引きずったまま台所へ向かった。棚から出したグラスに麦茶を注いだ。今日は神社にも寄っていなかったから、喉がカラカラだったことを思い出したのだ。「汐音、椅子に座っていれば簡単にはズレないから、勉強するかピアノしなさい」鍋から豆の変な匂いがする。あの匂いは私は好きじゃなかった。「わかった」そういうとグラスを持ったまま部屋へ戻る。勉強するくらいならピアノの方がマシだ。机にグラスを置いて、ピアノに向かった。練習曲と課題曲、いつも以上に集中して弾いた。だって忘れたかったから。股から血が出るなんて気落ちの悪い事、経験するなんて、思ってもみなかった。冗談じゃない。今日のピアノは荒れていたな。いつもの3倍は力が籠っていた気がする。二の腕の筋肉がきしんでいる。休ませないと、筋肉痛で明日に響く。気が付くと8時を回っていた。3時間以上弾いていたのか。いつの間にか弟も父親も帰宅していたようだ。「お、今日は珍しいな。赤飯なんて」親父が自席につくと皆もそろって自席につく。「そういうのもたまには良いでしょ」何も言わないのか。生理の事は、男は知るべきじゃないって事なのか。弟も珍しげに釜を覗き込みながら、茶碗によそってくれるのを待っている。こいつは混ぜご飯の時も同じ顔をする。白米より混ざっている方が好きなんだろう。誰も気にも留めなかった、いつもと違う晩御飯。吸い物となにか、思い出せないが、適当なおかず。大してうまいとも感じず、喉をうまく通って行かなかった。ぐったりした精神力のせいで、食欲はほとんど無くなっていた。部屋へ戻りピアノの続きをする。あまりに急いで帰宅したので、宿題の為のノートと課題のプリントを学校に置き忘れていたのだ。明日は早く家を出よう。中途半端でも何もしないよりはやった方が身の為だ。それに事情説明を担任にするのは気が引ける。そういう秘密は明け透けにしたくない。彼女らが動き出すきっかけを作ってしまい兼ねないからだ。▶~5年生---------------------------------------------------------珍しい事に母が買い物に出かけるからついて来いという。普段そんな事は絶対に言わない人だったが、買い出しでもするんだろうか。行った先は総合スーパーだった。2階の下着売り場に、向かっていた。生理用のショーツはあれから母が見繕ってきて、すでに持っている。今日はまだ何か必要なものでもあるんだろうか?店員を捕まえてこう言った。「子供用のブラジャーが欲しいんですけど」…は?店員はいそいそと売り場を案内し、サイズの確認やデザインの機能性などの説明を始める。母は聞いているのか居ないのか、軽い返事を繰り返しながら、あれこれ手に取っては、私の背中にそれを押し当てた。そして店員が余計な事を言った。「お嬢さん、身長もお胸も大きいから中学生ですか?ジュニアよりも大きいサイズの方が良いと思いますが‥‥」クソ馬鹿。面倒な事を言うな。見ろ、母が不機嫌になった。母は店員の質問には答えず「大体わかったので自分で選ばせますわ。ゆっくり見たいでしょうし」余所行きの声で、余所行きの言葉を使って体よく追い払った。「どれにする?自分で選んでみなさいよ」「体操服だと透けるからこんなのしたくない」「馬鹿ね、しなきゃもっと透けるんだよ」「でもいらない」「そういう訳にはいかないでしょ。」そんなものしていけば揶揄われるに決まってる。カッコウの餌食だ。「とにかくいらない。学校で何言われるか…なんでもない」「なによそれ」「何でもないの。とにかくいらないから、変なもの買わないでよ。買っても着ないから」聞いちゃいねぇ。物色し始めた母親は、すでに違う世界に没頭し始めた。中央階段の傍にあるベンチに腰を掛けた。どうせ強引に買ってくるんだろう。対して良い品物でもなさそうだったし、あの程度ならT シャツを一枚重ね着するだけで十分だ。そう一人でゴチっていたら、背後から声がした。「あれ、汐音ちゃん?」「!?」聞き覚えのある声に、思い切り振り向いた。そこにいたのは、英子だった。 「どうしたのこんなところで?一人?」「…いや、一人じゃないけど、ごめん、トイレ行くから」英子の母親に挨拶の頭を下げると、私はトイレに向かって走った。「どうしよう、見つかった…母さんと接触しませんように…」帰りの車中、気が気ではなかった。英子に見つかった時、下着売り場の真ん前だった。頭のキレる子だから、なぜ私がそこに居るかくらい見当がついているかもしれない。学校に行きたくない。行けば何を言われるか、分かったもんじゃない。サボろうか。いや、だめだ、すぐバレる。せっちゃんがきっと告げ口する。なんでよりによって同じ時間に、同じ場所に、英子と出くわしたりしたんだ…。そんな偶然でまたひどい目に合うのか?冗談じゃない。いつの間にか手が震えていた。私の小物は、鉛筆と小刀、消しゴムだけになった。ノートは教科すべてを1冊で使いまわし、燃えた教科書はそのまま使用している。これ以上何が奪われるんだろうか。リコーダー、ピアニカ、習字道具‥‥学校に置き去りにしていたものは、毎日持ち歩くようになった。夏の水泳が始まるともっと大変で……。そこまで考えたところで気づいた。もし生理の日に体育の授業があったらどうしようか‥‥。ヘタをしたら全員にばれてしまう‥‥。自宅に戻って母が言った。「体育の授業の時に恥ずかしいから、これをちゃんと着なさいね。みっともない真似しないでよ。」手渡されたのは白くて大きなブラジャーだった。思わず私は机に突っ伏した。またつまらない事に巻き込まれる予感が、ヒシヒシと感じられたのだ。▶---------------------------------------------------------------予想はあらぬ方向からやって来た。クラスの男子2名が、接触してくるようになった。接触…そう胸に直接触ってくるのだ。しかも触るなんてもどかしいものではない。握ってくる。塾前になると、私は放課の間に宿題を済ませようと机に向かうのだが、真後ろから脇を通して両手で鷲掴んでくる。何度辞めろと言っても聞かない。成長途中なので痛いし、他人の手だから不快だし、何よりオモチャ扱いされているのが腹が立った。やるように命じたのはおそらく英子と明子だ。英子はあの日、私の母親と偶然を装って接触したらしい。母も外面は良く騙されやすいから、英子の母親と子供の成長についてアドバイスをされるなど、まったくもって余計な種を蒔いてくれた。その種が、自分の子供を貶めるものだとは知らないくせに。それは毎日、毎放課、授業中でも、遠慮なく続けられた。誰も止める者はいない。休む間もなく、そして気も緩めることもできず、それは続けられた。もはや拷問に等しかった。それだけではない。どこから漏れたのか、生理の事もバレていた。放課のたびにナプキンを替えに行く私の後を追って、女子生徒がトイレまでついてくるのだ。校舎の中のトイレで問題は起こしたくなかった。だから運動場のトイレに行った。そうしたらいつの間にかつけられていたらしく「血だらけなんでしょ?洗ったげるよ」と言って、ホースの管が私をめがけて飛んできた。ホースの口から出てくる大量の水を浴び、勢いで踊るホースを何とか捕まえて、隣のトイレに投げ込んだ。遠くで笑い声が聞こえる。嘲る様にバカにする様に、高らかな声を上げて走り去っていく。替えたばかりのナプキンも、ショーツも服も髪の毛も、びしょ濡れになった。立ち上がる気力もなく、私はその床に壁に靠れながら滑り込むように座り込んだ。なんでこんな目に合うんだろう。私が何かしたのか?強制的に胸を揉まれるようなことを?水を浴びせられるような悪い事を、私がしたのか?これは罪なのか罰なのか、それとも試練なのか?試練なら戦える。でも罪と罰であれば、まったく思い当たる節が無い。お手上げだ。あの担任だ。あの一言さえなければ平穏だったのではないか。それとも、あれが無くてもこういう目に合うのなら、生まれてきたことが間違いだったのか?何かの小説で読んだ。「生れて、すみません」だったかな。確か太宰治の小説だった。小説の名は覚えていない。でもその言葉の意味を、私はその時理解した。授業に出てこない私の事を心配した教員たちが、あちこち探し回ってくれたらしい。私は濡れびたしのまま、運動場の個室の床に座り込んでいるところを発見された。床に血がついていたことから騒ぎになったようだが、保健室で生理用品と着替えを借りて、タオルで頭を拭かせて貰えた。なにがあったのかと問い詰める教員に、私は何も答えなかった。救える者などいない、他人も親でさえも、この地獄から這い出す私の手を取るものなどいないと、決めつけていた。明日になればまた、同じ日々の繰り返しだ。教員の目の届かない場所では、私はオモチャだったのだから‥‥。お腹が重い。鈍痛と言うのだろうか。それで目が覚めた。保健室で横になっているうちに眠ってしまったようだ。そして隣に立っている人物を見てギョッとした。母がいる。「全くあんたは‥‥問題ばかり起こしてどういうつもり?」どんな事情があろうと学校へ呼び出される事は、詰まるところ私のせいだと、いつも母は決めつける。「まぁお母さん、今回の事は汐音ちゃんのせいじゃなりませんから」「では誰がこんな事を?」「それが‥‥まだ誰がやったのか見当が付きませんで」「クラスに18人しかいないのに、なぜ見当がつかないんですか?」「現在はまだ調査中でして、クラスの子に聞いている最中なんです」猿山のボスみたいだな…と思った。無駄吠えか何か分からないが、ひとしきり大きな声でキーキーと叫ぶあの猿のように。「汐音、汐音!」名を呼ばれてビックリして母の顔を見た。「あんたは何か覚えていないの?」「…」覚えてるよ、あの声は英子と明子だった。でも私は何も言わない。「トイレのドアを閉めていたから何も見ていない。上からホースが降ってきて水が全開で飛び出してて‥‥それしか分からない」憎々しげに私と保険の先生を見ると、母は私に車で待っているように告げた。また余計な事をしでかすつもりじゃないだろうかと、気が気ではなかった。が、ものの10分ほどで帰ってくると、そのまま家まで連れ帰られた。尋問が始まるのだろうか。そう思って身構えていたが、母は何も言わなかった。何を考えているか分からない相手ほど怖い物は無い。私はただ、何も言わずに外の流れる景色を見つめるだけだった。それから1週間ほどして生理は終わった。専用のショーツ、ナプキンの大きさまでは理解した。だがプールが始まった時の対処法を教わったがそれだけは断った。異物混入なんて御免被る。しかも自分で入れるという。人差し指より少し小さなそれを、奥まで突っ込めという。冗談じゃない。そこまでして授業に参加するくらいなら学校を休むというと、それだけはダメだという。じゃぁ授業自体休ませてくれと懇願した。人がいない間に小物をあさる奴がいるんだ、そんなもの見つかったら何を言われるか分かったもんじゃあない。母はいつも以上に頑固な私に少し驚いた表情を向けたが、了承してくれた。それから始まった一カ月後のプールの時間。私は炎天下の中、見学をしていた。女子生徒は次々と聞いてくる。「なんで今日休んでるの?」「今日は入らないの?」「泳いじゃいけない理由でもあるの?」あぁ‥‥‥うるさい。夏前の授業で分かってるくせに、一々聞くな。自分らが何言ってるか分かってんのか?いずれ同じ目に合うんだよ!私だけじゃないんだよ!叫んでやりたかった。今日も休むの?いつまで休むの?いつんなったら入れるの?この際だから聞いてやろうか。あんた達はいつんなったら大人の体になるの?いつまで子供のままなの?このまま大人になれると思ってんの?まだ成長してないの?変なの(笑)止めよう止めよう‥‥‥馬鹿を相手にいくらイキっても、仕返しが倍になって帰ってくるだけだ。最大値のストレスを抱えたまま、私はボーっと水面だけを見ていた。その日は体重測定と身長計測の日だった。パンツ一枚、名前順に並んで計測を待つのだが、ブラジャーをしている子は一人もいなかった。その上、当日生理で専用のショーツとは言っても紙が少しはみ出ている。担任の男性教諭に聞いた。「全員が終わってから計測するのはダメですか?」「なんで?」「え、…いや…みんなとは一緒に計測したくないし」「あぁ、生理の事? みんな知ってるし気にしないよな?なぁ?」クスクスと声が聞こえる。一斉に私へ視線が集まる。その全員がどこを見ているのか、すぐに察した。「…んな」「は?なに?」「ざけんなってんだよクソ野郎!!」「っ?!渡辺?」「どいつもこいつもオモチャみたいに他人を扱って、何がそんなに面白いってんだ!!大体なんで男の教師が女子の着替えに同行してるんだよ。ドスケベ野郎が」私はそう叫ぶと、ブルマと体操シャツを着たまま保健室を出た。追ってきたのは保健の先生だった。「待って、渡辺さん!待って!」「いやです。測定は別の日に私だけやってください。私はみんなと一緒にやるのは嫌です」「分かった、分かったから止まって」仕方なく足を止める。息切れした保険の先生が私の肩を掴んだ。「ごめん、気が利かなくてごめん。カーテンの向こう側のベッドのある部屋でやろう。なら構わないよね?誰も見れないようにする。時間も後で良いから。山本先生にはちゃんと言っておくから」私は先生の目を見た。先生はギョッとした顔で私を見ると、私を抱きしめた。人に抱きしめられるなど、正直言って初めてだったから全身硬直してしまった。「っ…先生…ちょっ」「ごめんね。やだよね、知られたくなかったよね。普通はもっとデリケートに扱う問題なのに、下級生と同じ扱い方だった。先生が悪かったよ。本当にごめん」私は泣いていたのだ。自覚は無かった。ただ涙がボロボロと頬を伝って落ちていく感覚も無かった。初めて人に抱きしめられて高揚していたのだろう、顔が暑いのが分かった。身長162cm、体重48キロ、それが自分の測定結果だった。その3週間後、私は長期休学する事になった。入院したのだ。
1話 私の日常「あーまた潰れとる‥‥道なんか横断するからこんな目にあうんだわ。大人しく川で遊んどったら良かったのに」蜃気楼の揺らめき立つアスファルトの上で、ボーっとしながら木の枝でカエルをつつく。私は潰れたカエルを見ていた。「汐音ちゃん、早よ行こう‥‥」「うん‥‥」通学路には街灯がほとんどない。帰り道は田んぼの間にある農道を、歩いて2キロ、往復で4キロの道のりを行ったり来たりするのが決まった日課だった。街灯はその間5本程度。冬になると変質者も出る。怖がりのさっちゃんは、家に帰ると挨拶もしないですぐに引っ込んでしまう。建具職人の頑固おやじが怖いのだろう。私はいつも道すがら、川に入ったり畦道を歩いたり、通りすがりにある神社の傍の湧水を、喉を鳴らして飲んでから家に帰る。まっすぐ家に帰ると、母親がうるさいのだ。「宿題は?」「ノートは?」「プリントは?」「ほかに用事は?」良くもまぁ、毎日毎日息も切らさず同じ事が言えたものだと、腹の中で感心しつつ、舐め上げるように母親を見る。「何その顔。ぶさいくな。」そのブサイクを産んだは誰よ…と小さくゴチてから机に向かう。「っと…そうだ、忘れとったわ」部屋の片隅にあるラップトップのピアノの前に座る。一日最低でも2時間は弾かないと指がなまるらしい。師匠の教えだ。楽譜を開いて課題で出された曲を弾く。いつも数字を見落とすので指使いは適当だった。ただ、そこをいい加減に覚えると物差しで手の甲をしばかれる。師匠曰く愛の鞭だそうだ。愛の鞭で蚯蚓腫れができるのを、私はピアノ教室で初めて知った。ピアニストになるわけでも無し、上手にできても聞く者も喜ぶ者も無し。言われるがまま引いている理由は、自分でもよく分からない。母にやれと言われたからやっている。3歳の頃、オモチャのピアノで耳コピした「ちょうちょ」を弾いたら、翌週にはピアノ教室に通う事になっていた。以来ずっと、無駄に本格的な練習ばかりを繰り返させられている。練習曲に飽きた頃、思い出したように鍵盤を見る。確かあの音はレから始まる。短い指を目いっぱい伸ばし、時々違う音を踏んでもお構いなしに進めていく。子供の割に手は大きい方だが、この曲を弾くにはまだ指丈が足りなかった。でもそんな事は関係ない。濁音が続こうが指が届かずに鍵盤をはじいてしまおうが、私は続けた。何度も何度も。この曲は、先月観た映画の主題曲だった。楽譜が無いので耳コピしてから何度か弾いている。気分が滅入っている時にはこれを弾くのが日課だった。耳コピだから指使いも滅茶苦茶だ。だが何とかかんとか弾けてはいる。スティング (1973) 「エンターテイナー」。ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの名作だ。このエンターテイナーを弾く時だけは、失敗しようと何だろうと気分が晴れた。そうでもしないと心が晴れない。満たされない。私には、家にも学校にも居場所が無かったからだった。