松本死刑囚、家族らと意思疎通なく=拘置所で異様な行動も-オウム事件 - Ameba News [アメーバニュース]
https://news.ameba.jp/entry/20180706-690/
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もうとっくに詐病ではないのかと見破られていたようである。
地下鉄サリン事件が起きたのは23年位前だろうか。
当時中学生でその日は卒業式の練習だったことを覚えている。
実行犯は誰だか直ぐ様特定されて一学期には強制捜査が行われて首謀者の麻原彰晃こと松本智津夫がサティアンの中で見つかって逮捕された。
その頃まだコロコロコミックを購読していてスチャダラ通信というコーナーの中ではしゃかりきにオウムネタで溢れ返っていたのを覚えている。
当時の事件性の大きさも然る事乍、子供達の間では半ば冗談でオウムを茶化していたのであった。
運動会もオウムネタをやっていたものだ。
ワイドショーもオウム一色である。
今思えば当時の子供達はどう思っていたのだろう。
おかしな事を真剣にやっていた連中を茶化していた子供達だが、まだまだあの頃は寛容だったのかも知れない。
知識人達の声は当時の子供達には届いていなかったようにも思える。
本も読まないし、ワイドショーからのネタだけだし、その分だけある種救われたかも知れない。
しかし知識人達はオウムに同情的だったり、破防法適用に反対を示していたり、何をおかしな事をやっていたのだろうと思えていた。
結局その後オウムは分裂したが後継団体のアレフは相変わらず麻原彰晃をグルとして崇め奉っていたようだ。
信者も増やしていて厄介である。
憲法で信教の自由や集会結社の自由が認められているから破防法適用は違法性が高いと考え、戦前の宗教弾圧とかあったからその記憶のある知識人が拒否反応を示していたのだろう。
戦後生まれでも当時の左翼達も学生運動に同情的だったからやっぱり反対を示す。
もう20年以上経つ。
そろそろ世代も一新される頃であるが、まだそうしたメジャーになれない人のルサンチマン(文字通りのルサンチマン)がオウム擁護をする。
もしかしたら彼らはオウム真理教に入っていたかも知れない。
流石にテロをやった事まで同情しないが、やっぱりその屈折した感情(コンプレックス)の基となっているのは支配層になれなかった悔しさが彼らの中にはあるのだろう。
知識人達やマスコミがオウム事件を総括出来ないのは自分達が支配層に入る事が出来なかったという劣等感を心なしか抱いているからである。
本当だったら自分達は政治家になっていた筈だ、本当だったら自分達は高級官僚になっていた筈だ、本当だったら自分達はもっと有名になって人々の心を強く打ち付ける存在になっていた筈だ。
オウム真理教の幹部は殆どが東大とかを出ている高学歴者ばかりである。
これが何を意味しているかもう言わなくても分かるんだけど、知識人達はそこから目を背けている。
そう言えば養老孟司も当時自分が教えていた学生達がなぜ科学を教わってきた筈なのにオカルトのオウムに惹かれていたのか疑問に感じていたという。
養老孟司は人間の心は別の物として合理化を図る機能があると考えていたようだ。
結局知識人自身がエリートのコンプレックスの塊だから彼らが率先してオウムに対する総括を避けてしまったから出来なくなっているのでは?
この、エリートに対するコンプレックスをどう説明するか、難しいところだ。
ただ分かり易い例えをするならば『Jリーガーになれなかったお笑い芸人』と言えば良いだろうか。
柔道やレスリングのオリンピックの強化選手にもなったが代表にもなれずにプロレスラーになった選手達とも言える。
青木真也や澤田敦士は柔道の強化選手だったという。
しかし、彼らがオリンピックに出ることはなかった。
芸人で元サッカー強豪校出身者はいる。
言うまでもないがペナルティのワッキーやヒデさん、パンサーの尾形たちであるが実力はプロに請われる程であるものの最終的にプロにはなっていない。
怪我とか辞退とかもあるが、プロの世界とて座れる椅子には限りがある。
オリンピックの槍投げの選手も元々野球部で投球に130km/hを出していたが、普通に(プロの基準からすると)そのくらい出す人は多数なので別段彼が特別という訳でもない。
今はJリーグもJ1、J2、J3と大相撲の番付のように幾つかのリーグに分かれていてクラブチームの数も増え過ぎなんじゃないかと思えるくらいであるが、そこから更に海外勢も含めた日本代表を選ばなくちゃならないから狭き門ではあることには変わりはないと思う。
官公庁も全国からエリートが集まるのでいくら難関校から出てもやっぱり官公庁の椅子は限られている。
大学時代や難関校の高校時代にエリートになれないと悟った人は「別の形で世の中を変えてやる」という意識の下で「別の仕事を選んだ」のではないのかと勘繰ってしまう。
それが社会正義の名の下で知識人やマスコミ関係者となったのではないかと思う。
しかしそれでもまだマシな方である。
マスコミにもなれない、大学教授にもなれない人はどうなる?
勿論、エリートは官公庁だけでなく医者もいるし大企業への就職もある。
企業の研究者にもなれる。
エリートを目指したがそのエリートにもなれずに不本意な道を歩まざるを得なかった人は多いだろう。
自分自身ではなく親や祖父母や親類や教師やら周囲の期待によってエリート教育を受けて来てたにも拘らず希望通りになれなかった者達は自ら立場や状況を合理化する感覚を持てずに今迄生きてきたのかも知れない。
よく、親の期待に応えられない子が逆上して事件を起こすことがある。
医者の一家に生まれても火を点けて一家を皆殺しにしたり、秋葉原で大量殺害を実行したり、自分の母親を殺してバラバラにする元看護師がいたりなど、本当に歴史は繰り返す。
多いか少ないかどうかはここでは問わないが、オウム真理教の幹部らはこういう犯人達と似ているのではと思う。
マスコミと彼らは地続きで彼らをエリートにもなれなかったコンプレックスと言おうとするものならば結局自分達に跳ね返って来るからそこに言及しないのだろう。
いや、出来ない。
結果的にサブカルに身を沈めたということで外に原因を作って己の心の弱さから逃れるといういつもの繰り返しが行われる。
メジャーになれなかった者達が別の世界で支配しようとする傾向は何時何時何処でも一緒である。
そう考えるとここ最近の反差別界隈もそうしたコンプレックスの塊だなと感じる。
彼らはマスコミにもなれない、知識人にもなれない、単なる普通の人達の集まりである。
自分達が普通の人であるという自覚が持てずにそれを否定して自分達が支える文化が優っているとしてサブカルチャーの否定をし始めている。
彼らは得てして音楽のロックを持ち上げるが、そのロックはもう若者がついてこなくなって老人のものとなってしまったことにも自覚が持てない。
元々碌に文化を支えて来た訳でもなく、ロック擬きの薄っぺらい文化しか持って来ていない。
常に政権を批判することしか頭になくそれが最上だと思っている。
文学も政権批判、寸劇も政権批判、音楽も政権批判、お笑いも政権批判さえすればいいと考えるからウーマンラッシュアワーの村本大輔に舐められる始末である。
永遠に闘争するからメジャーになれないのだろう。
政権批判しか頭にないから敵が物凄く大きく見えてしまっているようにも感じられる。
結局もう、そんな事はない。
大きな敵は自分達の影である。
自分の影が相手に照らされて壁に当たって大きく見えているだけである。
政治は選挙によって選出されるというルールをこの150年で決めて来たのに、それが全然理解出来ていないし、理解しようとすることさえも放棄しているようにも見える。
自分達の理解を得ようとする努力を怠っているからオウム真理教のような事件を起こすのではないのかと思う。
しかし、オウム信者の転居拒否は人権侵害だと思う。
これも憲法に定められた基本的人権の尊重に悖ることだし居住転居の自由にも反する。
それを行政や立法や司法が見て見ぬ振りをしているのである。
大多数が有権者だからそれに慮っていて三権分立が機能しなくなっている。
事件を起こすとか信用していないのだろうけど、これではとても法治国家とは言えない。
そしてそれを庇おうとする人も出てこれない状況である。
大衆批判は昔知識人達のお手の物だった筈なのに今じゃ商売に直結しているから左の人達も住民のやっている転入拒否は人権侵害だぞと言うことが出来なくなっている。
右も左も大衆批判が出来なくなっている。
マスコミもこれを取り上げないのが不思議である。