藤原道綱、何処に立つ ⓼ | 草村もやのブログ

藤原道綱、何処に立つ ⓼

藤原道綱、何処に立つ⓼

長谷寺へ

 

 

次に道綱が登場するのは、前回のような夫婦の親密な場面、その後の夜離れの日々の、さらにのちの事である。

     ☆

たまにやってきた兼家と、ゆったりしているうち、「はかなきこと言ひ言ひのはてに」、売り言葉に買い言葉で、夫婦喧嘩が大きくなり、兼家は、出ていくと言い出した。

     ☆

縁側に出ると、彼は子どもを呼び立てて、「私はもう来ないからな」などと言って、車に乗って行ってしまったらしい。

道綱はすぐ入って来て「おどろおどろしう」泣いた。

     ☆

「どうしたの」と言っても返事もしないで泣き続けたから、そんなことがあったのだろう、と母は書きつけた。

     ☆

ここで、大泣きして、父親に何を言われたか、話もできないでいる「幼きひと」道綱は、すでに数えで12歳になっていて、そろそろ1人前扱いされる準備中、と言ってもおかしくない、微妙な年ごろなのである。

     ☆

『蜻蛉日記』という作品を創るにあたって、母親のした誇張もあろうけれど、いささか幼稚な子どもだったのかもしれない。

     ☆

めんどうになったのか、兼家の訪れは、その後5,6日ほどもなかった。

     ☆

翌967年秋、村上天皇から冷泉天皇への代替わりがあり、中将・蔵人頭になって忙しくなった兼家は、歩ける距離の家に、道綱母子を引っ越させた。

     ☆

兼家の同母妹で、村上天皇の後宮に入り、美貌と歌才から寵愛され、のち、円融天皇の母がわりとなった登子も、里下がりに利用する家である。

     ☆

広大な邸のあちらとこちらで、女性ふたりは、歌を交わしたり笑いあったりの、楽しい交友をつづける。

登子あての兼家の手紙が、間違ってこちらの方へ届けられたりしたときも、作者はしゃれた挨拶をつけて持たせたりする、といった交流が描かれる。

     ☆

兼家は、このころ、おそらく時姫も、近くに越させたのだろう。

     ☆

翌年、時姫との間の娘・超子が、冷泉天皇に入内することになり、兼家は準備に忙しがっていた。

道綱母は、一段落するまで待っていてくれれば一緒に行くよ、という彼の意にさからい、入内なんて「わが方の事にしあらねば」知ったこっちゃアない、とばかり、道綱を伴って、「年ごろ願ある」初瀬(長谷寺)に詣でる旅に出た。

     ☆

「願」は、むろん子宝、できれば娘を授かりたいという、長年の願望だったろうと思うと、つくづくせつない。

     ☆

それはそれとして、京から出たこともほとんどなかったであろう道綱母は、このプチ旅行を楽しんだ様子である。

朝から出て、お昼ごろ宇治の別荘にひっそり到着。

     ☆

同乗してきた道綱を車から降ろし、幕を張ったりさせてから、川に向かい、簾を巻き上げてみると、網代が仕掛けられ、舟が行きかっている風景があり、彼女にとっては「すべてあはれにをかし」なのであった。

     ☆

長谷に参拝した翌朝、もっと籠っていたいのに、供の者たちが、どんどん帰宅の手配をするのが残念である。

それというのも、兼家が、途中の宇治まで迎えに来ることが分かっていたからで、実は作者も、来る途中、家人たちがその打ち合わせをしているのを聞いている。

     ☆

宇治川に近づくと、霧が立ち込め、不安になってくる。

車から牛を外し、渡河の準備をしていると、迎えに来たおおぜいの人の声が響く。

     ☆

霧の下から網代が見え、川向うで待っている兼家との間に舟が往復して、歌を詠みかわす。

風雅の極みである。

     ☆

車ごと舟に担ぎ入れ、大声で棹さして、川を渡る。

向こう岸では取り巻きの貴族たちを従えた兼家が待っている。

     ☆

精進落としの用意がしてあって、宴会となり、近くに別荘を持つ兼家の叔父・師氏からも誘われる。

兼家は、こちらから伺候すべきでしたと返事をし、使いに単衣を脱いで与える、など、描写も細かい。

     ☆

この国の最高位の人々との交流は、道綱母の気持ちを晴れやかにした。

兼家も迎えに来てくれたことだし、行きとは違って、帰りはルンルンなのであった。

968年、作者33歳、兼家40歳、道綱14歳の年である。