藤原道綱、何処に立つ ⓹ | 草村もやのブログ

藤原道綱、何処に立つ ⓹

藤原道綱、何処に立つ ⓹

待つ人の来ぬ桃の節句

 

 

『蜻蛉日記』には、このころの、そうした貴族の暮らしらしい風景も、記されている。

956年、村上天皇の御代で、道綱の母21歳、道綱が生まれて半年あまりたったころのことである。

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3月3日夜、桃の花を用意して待ったが、花に勝る貴公子の夫・兼家28歳の訪れはない。

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めずらしく、同居の姉のところに毎夜通ってきている姉婿も、この日は来なかった。

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なのに、なぜか、翌朝はやく、ふたりともやって来た。

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昨夜は待ちかねて、しぼんでいた女房たちが、わあっと生気を取り戻して、あちこちから、用意していた桃の節句らしい品々を取り出し、桃の枝を折って飾る。

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もちろん、ひとこと恨みを言わずにいられない道綱母は、手習いするように歌を書きつけた。

  待つほどの昨日過ぎにし花の枝は  

     今日折ることぞかひなかりける

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わざとらしく隠すふりをすると、男はじゃらついて奪い取り、返歌を書く。

  三千年を見つべききみには年ごとに 

     すくにもあらぬ花と知らせむ

3000年に1度生る<西王母の桃>のようにあなたを思い続けている私だもの、たまに来なくても(好く=透く)、ほかで桃の酒を飲んだわけじゃなし。

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それを聞いた姉婿も

  花によりすくてふことのゆゆしきに

     よそながらにて暮らしてしなり

桃の酒にひかれて来たと思われてはいかにも軽薄だから、わざと昨夜はほかにいたのですよ、と詠む。

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外から見れば、おしゃれな交流のできる、心豊かな家族のありようと見えるかもしれない。

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この姉婿・為雅も、小野に大きな山荘を持つ藤原文範の次男で、紫式部の祖父・為信の兄にあたる人である。

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もちろん昨夜、兼家は、「町の小路の女」のところに泊まったに違いないのである。