藤原道綱、何処に立つ ⓶ | 草村もやのブログ

藤原道綱、何処に立つ ⓶

藤原道綱、何処に立つ ⓶

瀬戸内寂聴は

『わたしの蜻蛉日記』で

 

 

つくり物語ではあるが、光源氏が、正式の儀式を行って妻としたのは、葵上・紫の上・女三宮の3人だけだという指摘がある。

服藤早苗『平安朝女の生き方』、小学館、2004、P.74 より孫引き

      

六条御息所も、明石の上も、いわばただの愛人なのだ。

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まして気のきいた女房クラスでは、それと匂わせれば、当時の読者には関係が察せられただろう。

女房と性愛関係を持っておけば、忠実な情報源となる、という事実か思い込みがあったらしい。

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紫式部が、ひと世代前になる道綱母の『蜻蛉日記』を読んでいたことは間違いなく、瀬戸内寂聴は、『わたしの蜻蛉日記』に、この作品が「六条御息所の悲恋に見事に取りこまれ」ており、また、「葵上との有名な車争いの場面も、『蜻蛉日記』では、道綱母が…兼家の正妻におさまっている時姫の桟敷にわざわざ近づいて、これ見よがしに歌を送ったりするのを、紫式部は二人の立場を逆転させて、車争いの場を思いついたと想像されます。」

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そのほか、兼家が一時のめりこんで、道綱母の嫉妬の対象となった「町の小路の女」は、そのまま夕顔である、と書いている。

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道綱母(みちつなのはは、936?‐95)は、藤原兼家(929‐90)と正式に結婚しているのだが、時代は1夫1妻多妾に変化しつつあり、夫と同居する妻が正妻となっていく。

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夫・兼家でいうと、いつからかはわからないが同居し、少なくとも、のち、新造した東三条第に招き入れた正妻は、時姫(?‐980)だった。

道綱母は、通いどころのひとつで、次妻という扱いになる。

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文学作品としては、夫の訪れを待つだけの身の作者の、深い葛藤・愛と嫉妬・人としての誇りなどがテーマになっているわけだが、当時としては、男が女の家に入るのだから、女の父の経済力や地位は、計算の内だし、(若夫婦が独立して住むことはあっても、夫の家に妻が入ることは、天皇家以外なかった)また、貴族は、娘を皇族や、より地位の高い貴族と結婚させることがすなわち繁栄の楚なのだから、娘を生まない妻は大切にされず、つまり、道綱ひとりしか子を持たなかった母は、かりにスタートが同じでも、次妻扱いされても、まあ仕方なかろう、というのが、当時の彼らの<常識>だったろう。

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なにしろ、新しい邸に迎え入れられた時姫には、のちの摂政関白となる道隆・道兼・道長のほかに、冷泉天皇妃となって三条天皇を生む超子、円融天皇妃となって一条天皇を生む詮子が生まれていたのだから。

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そんなことは百も承知であったろう道綱母が、書こうとしたのは、それでも湧き上がる自分の思いを抉り出し、純粋培養して書いてみようという、作家魂ともいえる意志による。

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「ただ臥起き明かし暮らすままに、世の中に多かる古物語の端などを見れば」そらごとばかり、そうなら自分のような「天下の人」との結婚生活を、いわばリアルに書いてみるのも、興味深いかもしれない、という執筆動機から書き始められたのが『蜻蛉日記』なのである。

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「今でいう純文学の私小説の元祖」という寂聴の指摘は、したがって、当たっている。

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私小説と言っても小説に変わりはないのだが、それでも、この作者は、信じても信じても裏切られる、ひとの心の芯のところの不安定さに涙を流しつつ、これでもかこれでもかと剥きに剥くのだから、「まったく、嫌味な女である。素直になれないのがどうしようもない性格なら、この女の生涯の悲劇は、兼家という多情な男のせいなどではなく、自分自身の性格が招いた不幸というのが正当だろう」「自分はもっと愛される価値のある女だという自覚があるから苦しむのです。つまり彼女には自我があります。」

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だからこそ、今に読まれる『蜻蛉日記』が書かれたのだ、ということになる。

  瀬戸内寂聴『わたしの蜻蛉日記』集英社文庫、2012/2009。