藤原道綱、何処に立つ ⓵
藤原道綱、何処に立つ ⓵
平安時代中ごろの結婚は、貴族たちの間では、1夫多妻多妾であった。
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顔も見ないまま、歌を詠みかわす。
最初は女房の代筆でも返事が来れば脈あり、そのうち、姫本人からの筆で返歌が来るようになれば、親の調べもついて、婚約となる。
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今の結婚式・披露宴・入籍にあたる一連の儀式があって、婿は供を従えて、牛車で、夕方、姫君を訪問、脱いだ沓を、姫の両親が、片足づつ抱いて寝る、というおまじないがある。
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食事などふるまわれた後、お床入りの際、衾を掛けたりする儀式は、母がする。
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翌朝早く婿は辞去、後朝(きぬぎぬ)の文を送り届ける。
姫君が返歌をしたためる間、当然、使者は接待され、禄(布帛・装束が多い)を受け取る。
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2日目も同様、3日目に、小さなお餅3個を、噛まずに食べるのがミカヨノモチ(=ミカノモチヒ)である。
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このミカヨノモチが重要で、そのあと、露顕(ところあらわし)という、親族友人集まっての宴会が、いわば披露宴である。
費用は、ふつう、すべて姫方の親が持つ。
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貴族たちは、ふるまうのにも贅を尽くしたが、ふるまわれるのも大好きで、結婚披露宴も、いそいそと出かけて、宴会に参加したものらしい。
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行かなければ行かないで、なぜ来なかったか、と糾弾されるかもしれないし。
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通いどころが何人いても、この披露宴までつつがなく運べば、正式の妻ということになり、子どもも認知される。
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結婚の儀式は、このように整えられていったが、離婚のルールはなかったらしい。
男性が女性の家を訪れる妻問い婚であれば、通わなくなれば、自然と別れたことになった。
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三行半のような書きつけもなく、妻は、庶民なら、別の男性を迎え入れれば、それでよかったらしいが、男女格差のより大きい貴族社会であれば、それは当然妻だけを縛り、夫の通う通わないは、男性の勝手次第・自由気まま、であった。
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それ以前では、男女の関係はゆるく、多夫多妻と言えそうな場合も多く、子どもが生まれれば、母方で育てた。
このあたりは、平安期でもいくらか続いていることになる。
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当初の生活費も妻方の親持ち、とくに衣食住のうち、衣は妻方持ちだった。
住も、ふつうは入り婿であるから、妻の家で妻の両親と同居する場合が多い。
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子どもはそれぞれの妻方で育って、父親の名も明らかだが、召人(めしうど)と呼ばれる使用人やおおぜいいた一夜限り的な妾の子どもたちに、父親の関与はなく、生まれ捨てられた。
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貴族・皇族の子でも、男の子は、布施をつけて僧にしてもらえればいい方だ。
女の子は、母親か、祖母など親族が育て、それなりに、女房勤めなどに出る。
母方の身分・経済力が、正式の妻とするには足りないが、それなりに遇すべきと考えられた場合のみ、身の決着をつける良い扱いを受けられたのだろう。
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たとえば和泉式部(976?ー1030?)は、冷泉天皇の皇子・敦道親王の召人として愛され、息子を生んだが、彼は寺に入って永覚となった。
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本稿の主人公・藤原道綱(955-1020)の、母の女房・源広女との間の長男も、15歳で出家して、のち道命阿闍梨という僧になったし、斉祇という後の権少僧都も、おそらくは受領階級の妻との間の子であろうという。
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道命は、読経の声のいい、歌の腕のたしかな(ここは祖母=道綱の母に似たか)、当時知られた文化人でもあった。
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どうでもいい話だが、この道命と、和泉式部が愛人関係となり、道命が性関係を持った後、身を浄めずに経を読んだので、いつも聴きに来る梵天・帝釈といった神々が来なかった。
おかげで、「五条西洞院の辺に候ふ翁」が、そばまで近づいて、読経を聴くことができましたと言った、という話が、『宇治拾遺物語』」1-1にある。