旅というほどの ⓷ | 草村もやのブログ

旅というほどの ⓷

旅というほどの

 

 

あらためて、チェックインして、午後遅く、南座へ行く。

     🚅

南座は、相変わらず美しい。

2階最前列でも、前の手すりが気にならない見やすさ。舞台の大きさ深さ、日本では、私は、この芝居小屋の観客席が、知る限りいちばん好きだ。

     🚅

主演は、若い人気役者、壱太郎・右近・隼人の3人である。

3人とも、行儀のいい、品のいい芝居をする。

     🚅

歌舞伎を継いでいくのに、案外古典の丸本物、『義経千本桜』や『忠臣蔵』などの時代物の方が、とにかく型を習ってその通りきっちりやれば、いちおうサマになるのが、ご先祖たちのおかげでありがたく、だんだんなじんで、持ち役となって味を出していくのに、時代時代の観客も、ついていけている。

     🚅

かえって、黙阿弥のような江戸情緒は、セリフ、立ち居振る舞い、むつかしいだろうな、死んだ勘三郎が、最後の、江戸っ子のセリフが言える役者だったな、と思っていたのだが、そう、近松も、ある意味、とても継承がむつかしいことが分かった。

     🚅

演目は『心中天網島・河庄』。

ダメぼんの――といっても妻子もある――紙屋治兵衛が「魂抜けてとぼとぼと」小春と心中するつもりでやってくる、その出から、小春の偽の愛想尽かしを聞いてキレる、その切れ方までが、東京育ちには絶対ムリ、ギシギシしないセリフの柔らかさ、肩や腰のふわりとした、愛嬌とでもいうしかない表現が、もう絶対ムリなのである。

     🚅

葵大夫の語りで、それでも7・5調に乗らないセリフ劇だけに、覚えた通りやっても味もそっけもないから、自分らしくしようとすると、東京の現在が邪魔をする、という具合だった。  

     🚅

これは、演劇としての面白さを中心に据えて、新しく作り替えて行かないといけない種類の芝居なんだ、とつくづく思った。

黙阿弥と同じである。

若い役者・演出家にとって、やりがいのある仕事だろう。

     🚅

それに比べると、『将門』は、踊りだから、すんなり、獲得しつつある技術と、舞台映えする若い美しさとが、伸び伸び発揮されていた。

     🚅

舞台は総合芸術で、踊りのおっしょさんも三味線さんも、清元・長唄・常磐津その他、それぞれの師匠たちは、苦労して、現在を意識しながら、伝統を継承しているから、役者も刺激されて、ちゃんとしなければいけない、という締め合い・競い合い――こわい先輩の目が、より大きいのかもしれない。

こちらの方は、よほど安心して楽しめた。

     🚅

さて、ようやく街の灯が嬉しくなる、早い時間にハネ、夕食は、友人が先代からおなじみの、いかにも祇園らしい細い細い路地を入ったところの小料理屋さんへ行く。

何回連れて来てもらっても、路地の入口を見つけるのにナンギする。

     🚅

品のいい、それでいてしっかりした料理を堪能した。

ご主人とは別に、若い板前さんが腕を振るっているが、料理そのものが芸になっているとはこのこと、と感心する。

     🚅

こういう時は、本当に飲める人がうらやましい。

いいなあ、と思うのだが、わたくし、修行が足りていない。

     🚅

そのうえ、四条通りへ出て渡れば、すぐ風呂と寝るところがあるなんて!

いい気持ちで出ると、まだまだ街は観光客が元気。

祇園だものね。