欧州に咲いた女優たち――貞奴と花子 ㉕ | 草村もやのブログ

欧州に咲いた女優たち――貞奴と花子 ㉕

おまけの感想

 

第2次大戦後、いわゆる新劇は、演技術を確立していなかったために試行錯誤していて、スタニスラフスキー・システムなるものが、大流行だった。

10‐20代の私も、もちろんこうした西洋かぶれにかぶれていた観客だった。

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敗戦直後、禁じられていた西洋文化(「源氏物語」などの日本文化も含めてだが)を、知的に新鮮なものとして学べ、という、それに一理あるのもたしかだが、しかし、感覚的にはぼんやりと違和感を持ちつつ、リアルに自分の目で判断しようという勇気を持てずにいたのだった。

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小山内薫はそんな<新劇>の、いわば元祖のひとりであり、真摯に、日本に新しい演劇をもたらそうとしていた人であったろう。

しかし、彼がほとんど信仰の対象としていたロシアのスタニスラフスキーは、花子の苦悶から死に至る歌舞伎芝居の様式を取りこんだ演技に、感心したのだ。

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現代劇を生み出そうとするならば、どんな伝統であれ、それをしっかり評価して捨て・拾いを判別、その上に、<現在>をどうかませるか、にこそ努力の甲斐があるものだろうが、その西洋と日本の、断層の深さは、彼ら・我らの手にあまるほどのものだった。

苦悩したのは、漱石だけではなかった。

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劇作家・木下順二さん(編集者時代に担当だったので、つい、さん、がついてしまう)は、パートナーであった女優・山本安英さんとともに、市川寿海のセリフのうまさなどに感心しておられたのを、1960年代、かぶれ・かぶれの私は、不思議に思っていたものだった。

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しかしおふたりは、正しく古典芸能由来のセリフ術を評価し、どこが優れているのかを分析し、現代劇に生かせるものがあるか、学ぼうとされていたのだ。

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浮世絵に代表されるように、長い江戸期を、少なくとも戦火ではヒトもモノもほとんど失うことなく、いくばくかの余裕が世間に生まれ、数世紀を過ごせた日本では、そりゃあ、グジャグジャもゾロリもあるけれど、たっぷりの魅力をたたえた庶民の文化が、異文化の人々を驚かし影響を与えるほどの豊かさを、溜めこんでいたのだ。

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浮世絵にしても、時代の高尚な文化人にとっては、そのほどんどが下品なサブカルチュアとの認識だっただろう。

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いくら河原乞食と貶められても、歌舞伎を中心とする演劇は、明治に入っても、黙阿弥に代表されるように、人々の喝さいを常に集めるほどの厚みを持っていたから、舞台に出ることを半ば禁じられていた女性たちも、眼は肥えており、踊り、義太夫・長唄・清元などの三味線と唄、茶道・かな書道など、共通の基礎技術は身につけており、座興に都々逸の歌詞くらいはたやすくひねり出したろうし、そこから迸り出たエネルギーは、新しい、いい観客を得れば、訓練された芸として、新鮮な感動を与えられたのだったろう。

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むしろ、初めて表に立つ場を得た女性芸能者の方が、なれて凝り固まってしまっていた男性たちより、エネルギーの総量が大きく、敏感に西洋の観客のための改変を加えて、爆発したのかもしれない。

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生来優位を保っていた知識人たちは、新と旧を上下に分ける感覚はあっても、手前から奥へ、<歴史>を見通すことがむつかしい、あるあるな固陋な発言が、当然支配的だったのだろう。