欧州に咲いた女優たち――貞奴と花子 ㉒
花子⑨
鴎外とエイスケの花子像
1910年、日英博覧会のとき、日本を代表する芸能人として、貞奴の名もあがった。
この、外務省による人選(外務大臣は、駐米公使時代に、音二郎一座をボストンまで見に行き、ワシントンに招いた小村寿太郎だった)に異論を唱えたのが、当時の軍医総監・知識人トップの森鴎外であった。
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「西洋では貞奴を日本のえらい役者と思って居るのだからね。貞奴より劣った花子というやうなものや…」云々。
これが、日本の、当時の、エリート知識人・文化人の、平均的な認識だった。
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西洋文化を高尚なものとして、自分の権威のバックとしておきながら、その西洋が褒めて、例えば、英国のフーズフー海外芸能人の部に上がった団十郎・音二郎・貞奴・左団次・花子のうちの女性2人をこき下ろす。
気に障る障り方が、尋常ではなかったらしい。
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慶応大学国文科の教授に、誰を推すかと問われ、言下に与謝野晶子を推薦し、
「奥さんの方。主人の方からは新しい何物も聞く興味をもっておらぬ」
と確認したという、フェアな判断に矜持を持っていたらしい鴎外でさえ、そういうもの言いをする時代である。
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ちなみに、このとき、晶子は、謙虚に辞退し、夫を招聘してほしいと依頼したという。
残念、晶子があっさり引き受けていたら!
エスタブリッシュメントの方が、変化に対応しきれないというが、晶子でさえ例外ではなかったのだろうか、出たくもない杭になる気もなかったのか…。
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それでも、花子の何かがどこかに刺さっていたのだろう、鴎外は、この年、『花子』という短い小説を書いた。
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当の花子は、前年オーストリアのヨーゼフ1世の臨席を得るやら、彼女の名入りのワインや巻煙草が売り出されるやら、人気の絶頂にあった。
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鴎外の小説では、モデルとして望んだ花子がアトリエに連れて来られると、ロダンは、一瞬にして、
「マドモワゼルの故郷には山がありますか、海がありますか」
と尋ねて彼女の心を開き、きさくにさっぱりと
「わたし、なりますわ」
と、ヌードになる事さえ承知させる。
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彼女の身体の「地に根を深く卸してゐる木のやうな…強さの美」をロダンの言葉そのままを引用した形で書いて終わる、ごく短い小説である。
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「子守上がりくらいにしか値踏が出来兼ねる」別品でない彼女を書く筆致は、しかし、まあ、よほど、おとしめているというほどではない。
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吉行エイスケも、花子を登場させている。
小野クララという筆名で書いた『東洋曲芸団』(のち、『バルザックの寝巻姿』と改題)である。
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こちらは1929年、現実の花子は引退していたが、まだ岐阜で健在だったころに書かれた。
34歳で亡くなったエイスケが渡欧したことはなく、まったくの創作である。
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花子とロダンと、ジョージ佐野という名の、吉川馨を思わせる花子の恋人が登場する。
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彫刻家は「まるで彫像に妾の精神を映そうとする錬金術師のように熱中していらっしゃった」が、別室から、バルザック像を引き摺ってきて見せる、と、あの物議をかもした――フランスが誇る偉大な作家を侮辱した、と、作品の引き取りを拒否された――「偉大な彫刻の中に、ロダンさんが枯れて自己となっていることを、妾は知ったのです」というふうな、「バルザック像」と「花子」の死の首像を材とした、吉行23歳の、渾身の、洒落た短編である。
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ちなみにこの年、あぐり夫人が「船のような建物」の美容院を開いている。
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箱根の、彫刻の森美術館には、入口を入ったところに、このロダンのバルザック像が置かれている。
なんだか溶けかかったような、不思議な像である。
「吉行エイスケ作品集」所収、文園社、1997