欧州に咲いた女優たち――貞奴と花子 ⑯ | 草村もやのブログ

欧州に咲いた女優たち――貞奴と花子 ⑯

花子③

花子の誕生

 

 

花子、は、その、ロイ・フラーが芸名として勝手に付けた名前らしい。

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彼女は、木曽川の下流、愛知県中島郡祖父江村(一宮市)の大百姓・太田家の3女・うめを母、養子に迎えた近くの豪農の3男・八右衛門を父とし、1868(明治元)年、長女・ひさとして生まれた。

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1年後には、妹・はまが生まれたから、ひさは、乳母の手に預けられていたが、この乳母と父親に「あらぬ浮名」がたち、乳母になついていたひさもろとも、名古屋の出店に移された。

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その隣人の青物屋夫妻に子がなく、ひさは、かわいがられるまま養女となった。

母・うめには次々子がさずかり、3男5女となっていたのだ。

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ひさは、踊りや琴や三味線を習ったが、それは実父の趣味だったらしい。

養親には養育費を払い、絹物・木綿の着物も用意した。

いわば、じいや・ばあや代わりのつもりだったのだろう。

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しかし養父が相撲道楽が過ぎ、借金を残して逐電、養母は、実家に金をせびりに行ったりしたが、8歳の時、花子を旅芝居の一座に、子役として売ってしまった。

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一時は実家の父が取り戻したのだったが、養母が取り返し、実母も何も言わなかったものか(のち花子はとても母親孝行しているから、花子が恨むことはなかったらしい。何か事情があったのだろう)、そのまま、子供芝居から、名古屋の新地の桝屋に、舞妓として売られてしまった。

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姉芸者に芸を仕込まれた花子は、16歳で、一人前となった。

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このころ実家は「不幸続きで、もう私に構って居られなかったのです」と、のち、花子は語っている。

実家没落の最後の引き金になったのは、1892年濃尾の大地震だったか。

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役者などとの恋路に走ったあげく、身受けされた20歳も年上の小豆島の某家に入籍したものの、夫は「心を身受けして呉ない。」

10年我慢したが、ついに33歳になって、質屋の若旦那と横浜に出奔した。

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しかし、この若旦那には働く気はまったくなくて、京都の実家に逃げ帰ってしまった。

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そのころ、たまたまその駆け落ちの、横浜行きの汽車で知り合った夫妻から、コペンハーゲンで、小さな博覧会があるので出ないか、と声を掛けられたのが、<花子>になる始まりであった。

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1902(明治35)年、あるデンマーク人が、神奈川県庁へ、芸人、撃剣士、相撲業、絵師、彫刻師、扇製造業、手品師、太神楽師、鵜匠、通訳、料理人、運搬人など、26名のパスポートを申請、21名に発給されている。

中に、花子の名もあった。

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5月、一行は、プロイセン号で横浜港を出港した。

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コペンハーゲンの動物園の敷地内に、小さな日本村がしつらえられてあり、花子は「晒し女」――高下駄をはき、白い布を振る、おおわざの舞踊や、潮汲みなど、歌舞伎舞踊を踊って、非常に評判になった。

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そこでの3か月の契約終了後も、彼女は一行と別れて、ベルギーに残った。

アントワープには領事館もあり、日本郵船の終航地として、日本人も多かったので、なにかと具合がよかったのだろう。